第23回文学フリマに参加しました
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
11月23日に流通センターで開催された第23回文学フリマ東京に参加しました。11時の開場と同時に入場し、各ブースを周りいろいろな本や雑誌を入手しました。途中、短歌人の方々、読書メーターの方々、読書会にてご一緒してくださっている方々とお話しなどしながら出展されている方々ともたくさんお会いできました。
当日購入した書籍です。
『ウォータープルーフ』沼尻つた子
『めぐる季節の回文短歌』三田たたみ
手に入れた雑誌などです。
「短歌ホリック(一首評)」「みたたんか(1首)」「SUVACO(1首)」「短歌のふんどし(6首)」「六花」「Tri 4号」「66」「おいしい短歌」「愛書部くらげの課書評集1・2」「象 4号」「塔 741号」「未来 777号」(書き漏らしているのがあったらすみません)
買おうと思いながら買えなかったものもいくつもあるのですが、じっくりと読んでいきたいと思います。
夕方からは、短歌な懇親会を開催しました。全国各地、海外在住の方も参加してくださり楽しい時間を過ごすことができました。さまざまな結社に所属されている方、学生短歌会の方、所属を持たない方、短歌との向き合い方の多面性を感じるひとときでした。
翌日はめずらしくも東京に雪が降りました。ツイッターで「ゆひら!」とつぶやいたところ、ノータイムで「雪のことかよ」と返してくださる人のいる短歌クラスタはしみじみといいなと思いました。
懇親会に足を運んでくださった方々、文学フリマでお会いした方々、どうもありがとうございました。
第2回漂流歌会に参加しました
こんにちは。短歌人の太田青磁です。
11月5日(土)にショージサキさん主催の第2回漂流歌会に参加しました。
ちょうど、うたつかいの秋号で会場の「珈琲西武」が紹介されていたのが気になっていて、思い切って参加してみました。
詠草を送っていたものを、事前に無記名で読むことができたので、気になる言葉を調べて参加できたのはよかったです。
参加者は9名で、無所属の方が多く、自由な鑑賞をお互いに楽しむスタイルで全首ゆったりと話し合うことができました。
この日の歌会のもう一つの楽しみは、パフェを食べる時間が歌会中に設けられていたことです。パフェも気になりつつ、オススメいただいたプリン・アラモードをいただきました。
最後に、特選(2点)と次選2票(1点)を口頭で集計したところ、首位が3名と分かれていて、奥行きのある会となりました。自作は1点でしたが、たくさんの評を聞けたのでよかったです。
超結社の歌会にも同じ結社の方がいると、やっぱり安心感がありますね。ベースとなる読みが近い方がいると、踏み込んで大丈夫な感じがありました。
その後の懇親会もとっても楽しくて、ほんとうに刺激的な1日となりました。
ショージサキさん、参加者の皆さま、どうもありがとうございました。
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一歌談欒 vol.2(中澤系「理解できない人は下がって」)
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
各自が自分のメディアで一首評をする「一歌談欒」の2回目です。今回は中澤系さんの代表ともいえる歌を取り上げます。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって/中澤系『中澤系歌集 uta0001.txt』
3番線を快速電車が通過します。危ないですから、黄色い線(の内側)までお下がりください。
という、駅で日々流されるアナウンスの「お下がりください」の部分を「下がって」と端的な指示に変えることで、ものすごく突き刺さる鋭さを持った短歌になっている。
上句は686なのに余っている感じがないのは、普段から聞き慣れた言葉なのと、サ行(3・線・速・車・します)の連続とan(3・番) en(線・電) ai(快) uu(通)の韻律がリズムを生んでいるのだろう。だからこそ、下の句の指示がより際立って強く響くのではないだろうか。
「3番線を快速電車が通過する」こと自体を理解できない人はいないだろう。が、「何を理解するか」、「理解できる人はどうすればいいのか」という問題は後回しにして、とにかく「理解できない人は下がって」と叫びのようなメッセージを発することには、あたかも自分の表現を理解できないであろう人を寄せ付けない頑なさを感じてしまう。
歌集中、「電車」「駅」といったモチーフは繰り返し登場する。また「システム」という言葉に象徴される、世の中にあらかじめ決められたルールを遅滞なく処理していくかのような世界観が構築されている。その「システム」と日常世界との境界線が快速電車が通過するホームのギリギリのラインなのではないだろうか。
注意深く世の中を生きている人は「3番線快速電車が」くらいで身を引いて、世界との適切な距離を保って生きていくはずだと思う。世界とシステムを「理解したい」人がいて、アナウンスを聞いてもなお「下がらずにいる」というスタンスをとる可能性を、暗黙の裡に感じさせる強さがある。
私が短歌をはじめてまもない頃、「中澤系」という歌人の著書を復刻したいと強く願う方の思いが、また、本人が生きていたら最終稿はこのようになったはずというご家族の思いが、多くの歌人の協力を得て復刻版という形で書籍になったことを知った。
2015年春の文学フリーマーケットで購入したこの歌集を開き、冒頭に突きつけられた「理解できない人は下がって」というメッセージを、勝手に短歌という世界に置き換えて「理解はできていないけれども、なんとか理解できるようになりたい」と感じながら歌集を読んだときのことを思い返した。
第8回現代の歌人を読む会を開催しました(俵万智さん、荻原裕幸さん)(2)
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
10月30日の日曜日に第8回現代の歌人を読む会を開催しました。後半は俵万智さんの『かぜのてのひら』以降の歌と、荻原裕幸さんの歌です。
俵万智さんの続きです。
焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き
バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ
子の友のママが私の友となる粘土で作るサンタの ブーツ
一首目『チョコレート革命』。主体と少女は同じ席で会話をしているのだろうか、それとも子どもの好みを無自覚に話す父なのだろうか。焼き肉とグラタンという具体的なアイテムの並べ方に、少女への嫉妬が透けて見えるようである。
二首目『プーさんの鼻』。ストレートな喜びが三回も繰り返されるバンザイに表れている。子育てのなかにほっと一息をつく瞬間があるのだろう。「そうだ」「生まれて」という発見は子どもの目を通した生命への無条件の肯定を感じさせる。
三首目、上記以降の作品より。子どもを中心とした交友関係の拡がりの中から、自分と価値があう友人ができるという経験は、親ならば一度はあるものだと思う。下句との距離感が程よく温かさを感じさせるようで、何かを作ることへの共感がよく出ている。
続いて、駆け足になってしまいましたが荻原裕幸さん。
ぎんいろの缶からきんの水あふれ光くるくるまはる、以下略
わたくしの犬の部分がざわめいて春のそこかしこを噛みまくる
新緑を着て新緑のなかを行くどこにもゐないひととして行く
一首目、ひとしきりぎんいろの缶ときんの水の比喩はなんだと議論したのちに、スーパードライ説が浮上。ぎんいろのアルミ缶から注がれるきんの水も納得。酩酊して記憶すら怪しくなる様子を「以下略」とぶったぎっているのも気持ちよく読める。
二首目、春は発情期なのでしょうか。ひしひしと伝わってくる春が来たぞ感は、自覚すらできない欲望を、いやらしさを感じさせることなく解き放つ解放感がある。下句の句またがりに頻出するカ行音が、上句のなだらかなリズムと対比していて面白い。
三首目、新緑のリフレインは同化してゆく自己の喪失感が感じられる。「新緑を着て」はあえて同じ格好をすることの暗喩なのだろうか。「行く」のリフレインも、比喩と実景のあわいに浮かぶ主体の逆説的な明るさを浮遊感が包んでいるようだ。
三時間の長丁場でしたが、短い休憩中にもアドレス交換など交流がありました。
解散後も、お互いの結社誌を読み比べたりして楽しかったです。お昼まで付き合ってくださった皆さまもありがとうございました。
次回は12月に開催予定です。穂村弘さんと林和清さんです。
よろしくお願いいたします。
第8回現代の歌人を読む会を開催しました(俵万智さん、荻原裕幸さん)(1)
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
第8回現代の歌人を読む会を開催しました。この読書会もようやく軌道にのってきた感じで、参加したいと言ってくださる方も増えてきました。
今回は、はじめての方が4名もご参加くださって、あわせて9名で短歌を鑑賞しました。
俵万智さんと言えば『サラダ記念日』30周年ということで、特別に3時間の拡大バージョンです。自己紹介のときに、はじめて読んだ歌集を聞いてみると多くの方が『サラダ記念日』をはじめとして俵万智さんの歌集をあげていました。
まず『現代短歌の鑑賞101』より、『サラダ記念日』に収録された歌を読みました。
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている
愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
一首目、主体の内面にある発見が的確な比喩で表現されている。下句の「どうでもいいよというような」(特に、いいよと)という言葉のスペースやの作り方や息のつき方が愛唱性を生む。「嘘」と「海」もリズミカルに呼応している。
二首目、当たり前のことを当たり前に言っている、だから何、と言いたくなるけれど、「寒いね」という会話のリフレインにいやおうことなく納得してしまう。答える「人」が、恋人でも、友人でも、親子でも、関係性を越えて成り立つ普遍的な共感を生んでいる。「~いる」+5文字の体言止めはよく出てくる。
三首目、ありふれたシーンを描きながらも、どこか欠落感がある。二句の字足らず、句割れが自然で驚く。砂浜のランチ/ついに手つかずの、とも読める。「ランチ」「ついに」「手つかず」「卵」とタ行の音が乾いたリズムを生む。「砂浜」と「サンド」のつき方もいい。
四首目、テレサ・テンの「愛人」のことであろう。時代性があり、女性の強さを感じる。「愛人で」は、誰にどのくらいの感情を寄せているのかが様々に読める。「いいのとうたう」と「じゃないのと思う」という「の」でつなぐ対句の構造も自然に読める。『チョコレート革命』につながる印象を持つ。
五首目、「記念日」という概念を作り出したともいえる歌。ここは「君」である必然性がある。「この味がいいね」というこの言葉を聞きたいと思っているすべての人のために、音の調べや主題の提示を考えつくしているよう。まさに、原作・脚色・主演・演出=俵万智の代表と言える歌である。
どの歌にも、どうしてこんなにも共感してしまうんだろうと、熱の入った会話の応酬となりました。予定していた時間を大幅に過ぎて、ここまでで2時間も経ってしまいました。
後半は、『かぜのてのひら』以降の歌と荻原裕幸さんの歌を読みました。
記録も次回に続きます。
サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)
- 作者: 俵万智
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1989/10
- メディア: 文庫
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一歌談欒 vol.1(今橋愛「おめんとか」)
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
各自が自分のメディアで一首評をする「一歌談欒」というイベントが始まりました。初回は今橋愛さんの歌です。
おめんとか
具体的には日焼け止め
へやをでることはなにかつけること
/今橋愛『O脚の膝』(山田航編『桜前線開架宣言』)
啄木を思わせる三行詩である。
三行目の下句が八八と一文字ずつ余っているのに加え、すべてひらかれており、「~ことは~こと」というリフレインの構造になっている。
また、三句で一度切れるうえに結句も体言止めであり、どこか散文のようでスムーズに読めないリズムの留保を感じさせる。
強引に省略された文脈を補うと
(主体が)へやをでること(をするために)は、おめんとか[具体的には日焼け止め](のような)なにか(を身に)つけること(が必要である)
となるのであろうか。※()内、[ ]は筆者
「へやをでる」は、主体が素のままでいられる状態から、「なにかつける」ものによって自身を守ることが必要な状態への変化と読むことができる。その「なにか」が「おめん」であり「日焼け止め」なのである。
「おめん」のイメージは、お祭りの屋台で売られているようなイラストの描かれたようなポップなものから、能や剣道の面といった硬質なもの、仮面舞踏会の仮面などと非常に広く、おめんとかの「とか」に提示された内容を作品中の文字から見出すのは難しい。
具体例として出された日焼け止めからは、おめんのイメージをかなり覆す印象を受ける。とはいえ「日焼け止め」を顔に塗ることによって、主体は確かに外界の刺激から何かを守っており、結句の「なにかつける」の「なにか」と初句の「おめんとか」の「とか」を微妙な距離感でつないでいる。
外界に対する主体の生理的なおびえを感じると同時に、それは目に見えない日焼け止めでも守ることができるのだという繊細な感覚を、大胆な文体によって提示しているように感じた。
2016年8月号「20代・30代会員競詠」より(3)
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
ひきつづき、短歌人8月号掲載の「20代・30代会員競詠」からいくつか紹介します。今回の参加者は「無人島へ持っていくアイテム」というエッセイを寄せています。実用的なアイテムを選ぶか、孤独の時間をどう過ごすかというところにもそれぞれの個性があります。なかでも鈴木秋馬さんのあげた「歳時記」がいいなと思いました。私は「広辞苑」を持っていきたいです。
テーブルの木目みたいなかおをしてきみがなにかをいいだす間際
/「ハト」鈴木杏龍
テーブルの木目が人の顔のように見えるということはありますが、その木目をきみがものをいう直前の表情にたとえているのは、切り取られた瞬間をなんとなくわかるなあという共感をもたせます。木目、間際をのこしてひらかれた表記にも味わいがあります。
一片の謎のごとくに書架にある文庫一冊分のくらやみ
/「文盲の虫」鈴木秋馬
本を読む時間は、読者を日常とまったく切り離された世界へと連れて行ってくれます。書架には膨大な本があり、その中に隠された一冊を探し出すようなミステリアスなイメージです。数えられない謎とくらやみを一片、一冊という数詞で示した巧みな一首です。
差して陽は風の在り処を追うやうに天球をくまなく塗り終えぬ
/「日と陽」角山 諭
朝陽が差しはじめてから、あたりが明るくなるまでの澄み切った時間を、風にのせて丁寧に描いています。初句の「差して陽は」と一瞬の線のような光が徐々に辺りを照らしてゆき、塗り終えぬまでの時間の経過を感じさせます。下句の5-4-5のリズムもゆったりとしていいです。
あおむけに力をぬけばこの部屋の隅まで自分をひろげるようで
/「扉と翼」砺波 湊
何もない部屋にあおむけに寝転んでいると、自分の身体が床と一体となりどこまでも伸びてゆく。そんな浮遊感のある体感覚をうまく捉えています。ひろがるではなく、ひろげるを選んだのは、自分の意思なのか、それとも自分の意思とは全く違う何かがなのかと想像がかき立てられます。
青草をちぎればただよう青草のいのちの匂い子とともに嗅ぐ
/「深い森に」中井守恵
自然をまず手で、そして匂いで感じるという豊かな感覚をお子さんと一緒に楽しんでいる様子が浮かびます。青草は対象として提示され、もう一度リフレインされることによっていのちが臨場感を持って伝わってくるように感じます。
ピーナッツクリームひと匙すくふ朝のまるでおもちやの国の土色
/「みづからのうみ」宮澤麻衣子
朝、パンに塗るピーナッツクリームの淡い茶色を「おもちやの国の土色」と喩えたところがユニーク。土色はどちらかというと落ち着いた感じなのに、おもちゃの国と書かれることでつやつやとひかっている様子が伝わってきます。
夜八時AKAとMIDORIにふちどられ通天閣は感度良好
/「思い出を」鑓水青子
大都市にはそれぞれのシンボルタワーがあるもので、大阪といえば通天閣の派手な電飾に対する郷愁が色濃く伝わってきます。AKAはあか↑、MIDORIはみど↑り↓と読むのだろうかと、表記に込められた想いに心を寄せてみたいです。結句の「感度良好」に突き抜けた明るさを思いつつ、大阪に行く機会があれば通天閣に足を運びたくなりました。