太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

2016年8月号「20代・30代会員競詠」より(2)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

ひきつづき、短歌人8月号掲載の「20代・30代会員競詠」からいくつか紹介します。この特集には去年一度だけ参加したことがあるのですが、題をつけると一連が立ち上がってきますね。

「日はまた昇り繰り返してゆく」リフレイン信じていいのとカーテン降ろす
/「バリケード」笠原宏美

冒頭の問いかけは自問自答でしょうか、それとも誰かのことばなのでしょうか。あふれる言葉を三句のリフレインで受けているところにも、主体の不安な感覚が伝わってきます。カーテンを降ろすという行為は一日の締めくくりなのでしょうか。カーテンも「バリケード」の一部なのかもしれません。

 

逢ふひとをカンパネルラに読みかへてたつたふたりつきりいきてきた
/「東方譚」柏木みどり

東方は宮沢賢治の故郷なのでしょう。心の中にある大切な場所へゲストを招いているようなイメージを持ちました。上句のカの音が立ち上げたリズムを、下句の撥音の繰り返しで立ち止まらせるような、タの音とキの音とで止め置くような不思議な読後感があります。

 

五時半に帰つて来ると復唱をさせ公園に子を送り出す
/「のの様しだい」河村奈美江

子どもを送り出すあたたかな親の気持ちが素直に伝わってきます。「帰って来る」という子どもの視点から言葉を選んでいます。定型で読めるのですが、57775という句またがりのリズムでも読むことができて、最後の「送り出す」の後に余韻が残る感じがいいなと思いました。

 

自転車に乗る人過ぎてそこに吹く風はわたしの知らない風だ
/「先へと続く」黒﨑聡美

自転車が起こす風を、まず感覚として受け止めてから、知らない風と知覚に落としていく時間の流れをうまく捉えた歌です。自転車の人は誰だろう、そこはどのような場所だろう、知らない風はどのような風なのだろうと、イメージを膨らませてみたくなる余白が「先へと続く」感じを受けます。

 

着信のバイブレーションを視界からはずして窓の夕暮れのぞむ

/「無題」小玉春歌

着信のバイブレーションは体感覚でしょうのか、まず耳で受けるのでしょうか。あえて視覚と捉えて意図的にはずすという行為は、架かってきた電話を受けたくないという気持ちが表れているようです。窓からのぞむ夕暮れには、わずかひとときでも自由な感覚を持っていたいのかなと感じます。

 

アパートは三階建てで三階に行かないままに八年過ぎる

/「線香と春」笹川諒

普通に生活をしていると、自分が住んでいない階には足を運ばないだろうと思います。三階には誰か知っているひとがいるのに訪れなかったというストーリーのドラマではなく、気がつくと八年も過ごしていたのかという時間の流れを掬いあげた歌なのかなと思って読みました。三階と八年という数字の使い方も、行かなかったという事実をモチーフにしているのもいいなと感じます。

 

フイルムが廃れたせいで破りたいのに空っぽなままのアルバム

/「8月のモノフォニー」鈴掛真

写真はすっかりデジタルになり、フイルムという言葉自体を聞くことが少なくなったところを、郷愁のような雰囲気で切り取っています。大胆な句またがりが「空っぽなまま」の空虚感を増幅させているようです。フイルムとアルバムも対のようになっており、あるべきはずの時間を残せなかった切なさを感じさせます。

 

2016年8月号「20代・30代会員競詠」より(1)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。
 
歌人8月号掲載の「20代・30代会員競詠」からいくつか紹介します。
勢いのある若手の歌を読むと気持ちが新たになる感じがします。
 
たれをかもしるひとにせむ真夜中の生放送のラジオ以外に
/「消えたオアシス」天野慶 
藤原興風本歌取りでしょう。「夜はぷちぷちケータイ短歌」で短歌をはじめた方も多いと聞いています。百人一首とラジオというメディアミックスによって、短歌の裾野を切り開いてきたという矜持が感じられます。三句四句の「の」結句の「に」に本歌取りの妙技があります。
 
雨の中社保庁に行く知り合いに逢わないように今日は裸眼で
/「裸眼の街」有朋さやか 
逢う逢わないを自分の視界に限定しているのがいいなと思います。職場ではメガネなのでしょうが、コンタクトだとしても、見ないことで保たれる心の平安はあるなと感じさせます。二句で切って、結句で思わぬ方向へ飛ばしてくれる構成も巧みです。
 
なまりいろの六月見ればかたつむりは雨がつくりて雨にながれき
/「天井灯」内山晶太 
視点のフォーカスとともに、主体がかたつむりになってしまったかのような浮遊感があります。梅雨の六月をなまりいろのとひらいて情景を共有させつつ、雨のリフレインであたかも、かたつむりが生まれて消えるまでの時間をゆったりと見つめているような気分になります。
 
いつのまにか眠りに落ちて朝になる枕元には読みかけの本
/上村駿介 

 この瞬間は本が好きな人にとって至福の時間です。本を読み、そのまま日常を忘れるように眠り、そして朝が来るという時間の流れを、読みかけの本というアイテムでうまく切り取っています。一連に焦燥感や虚無感の漂う歌が並んでいるのですが、そんな日に読む本が楽しい本であればと思います。

 
あんな声をわたしも持てり 風鈴がかぜとぶつかり驚いている
/「げっしるいの夜」大平千賀
風ではなく風鈴に自分を寄せているのが素敵です。結句の驚いているは主体とも、風鈴の音の比喩ともとれ初句の「あんな声」というテンションの高さを一首全体に伝えてくれます。持てりの「り」が風鈴の「り」とも音色とも重なっていて、うまく響きを作っていると感じます。
 
スカイプもラインもできない停電の間ひととき孤立している
/「韮のひと束」織田れだ
島で暮らす主体にとって、停電は日常のすべてを遮断する出来事なのでしょう。コミュニケーションが途絶えたときの自らを、感情をまじえずに客観的に描写しているのがいいです。新しい技術は、世界を近くに引き寄せている一方、停電ひとつで使えなくなるというアイロニーもあります。
 
かなしみは疾走したり湯を沸かしつつ口すさむ夜のモーツァルト
/かかり真魚
この曲は弦楽五重奏曲でしょうか。それとも交響曲でしょうか。いずれにしてもト短調のフレーズが浮かぶのは、かなしみと疾走に強いイメージがあるからかもしれません。湯をわかす、口すさむという日常のなにげない動作にもモーツァルトを感じる感受性があります。

鳥歌会on Twitterに参加しました

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

インターネットで開催された、第8回鳥歌会on Twitterに参加しました。前回に続いての参加でした。

参加者は主催の千原こはぎさんを含めて15名、詠草発表後にタグを使ったリプライで、互選をしつつ、最終日に選をするという、少し変わった選歌スタイルです。

今回はテーマ詠「初秋」でした。

じつは、半分くらい自由詠だと思っていたのですが、ギリギリにテーマ詠であることを確認し、半ば強引に、枕草子から「秋は夕暮れ」を借りて手持ちの歌を出しました。

 夕暮れのスカイツリーはあでやかにうす紫のひかりこぼせり

三句がどうにもイメージを切り取る言葉がはまらなくて、試行錯誤をしているうたをどう読まれるかと思って出した歌です。

いただいた評は、「夕暮れの時間のマジックアワー」と好意的に受け取ってくださった方がいる一方で、「紫のライトアップは季節と関係ない」「題との距離がある」「何を詠みたかったのかがうまく伝わってこない、あでやかという主観的な表現は使わない方がよかったのでは」と厳しい評も並びました。

スカイツリーのライトアップは青が基調の「粋」と紫が基調の「雅」があるのですが、「雅」の色が夕暮れに溶けていく様子を描写できたらという、人工物への叙景のつもりでした。

枕草子の自然の描写に対して、都市の建造物の描写は、題を想起させるのが弱かったと思います。いろいろな意見を参考に、より良い表現に推敲していければと思います。

 

今回、選を入れた歌です。

 クレリックシャツを羽織って淹れるお茶はらはらと葉がひらくのを待つ/葛紗さん(2点)

クレリックシャツは襟と袖が無地のおしゃれなシャツなのですね。秋を意識した服装がいいです。「羽織る」、「はらはら」、「葉」とハの音でゆったりとした時間をつくっているのがいいなと思いました。三句の切れは一字空けてもよいのかなと思いました。

 セーラーの奥に鬼灯隠し持ち君を見るたびほのかに鳴らす/千束さん(1点)

ほおずきを鳴らすのが君との合図という光景は懐かしさを感じます。セーラーの奥に隠してという淡い思いが浮かび上がっていいなと思いました。「ほおずき」「ほのか」という音の調べも雰囲気を作っています。漢字表記は読者を選ぶかもしれません。

 またひとつ夏の終わりを見届けて秋をはじめる庭の魔術師/有村桔梗さん(1点)

庭の魔術師は家族の誰かでしょうか。夏に伸びた草を取り枝を刈り実りの秋を迎える庭仕事に励む情景が伝わってきます。季節の変わり目はグラデーションのように変わっていくところを、決まった行為によって「秋をはじめる」というのがいいなと思います。

 

そして、今回の首席は二首でしたが、どちらにも選を入れていませんでした。

 赤蜻蛉が火の粉のごとく飛び交へるすすき野原を駆け抜けて来つ/浦和みかんさん

火の粉のごとくという比喩は景を鮮やかに浮かび上がらせていていいなと思います。駆け抜けて来つは主体でしょうか、想い人でしょうか。蜻蛉が駆けてくるとも読めてしまうのと、上の句がすべて「すすき野原」にかかっているのが少し重たい感じもあります。

改めて読みなおすと、結句の「駆け抜けて来つ」に動詞が三つと助動詞があり、カ行とタ行が並んでいるのを重たいと感じていたのだと思いました。

 

 君はもう過ぎてしまった日々になる 刃を寝かせ梨を剥くとき/南瑠夏さん

君は日々になるというつなげ方は少し強引な感じです。包丁の刃を「やいば」と読ませるのも無理があります。抽象的なイメージを具体的な描写で受けるという構造は見かけるパターンなのですが、梨を剥く行為と失恋はあまり呼応していないように感じました。

「君(といた日々の思い出)はもう過ぎてしまった日々(の出来事)にな(っているように感じられ)る」という補完が、自然に行われてイメージを浮かべることができると、自然に歌の内面に入っていけるのでしょうか。刃(やいば)を寝かすにも、時間の経過があるのかもしれないと、他の方の評を読んで気がつきました。

 どちらのうたも、減点法で落としてしまった感があり、歌のイメージを大きく読み取ることが大事だなと思いました。

 

こはぎさん、参加された皆様、素敵な歌会をありがとうございました。

短歌人2016年10月号

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の月詠です。

歌人2016年10月号 会員2(太田青磁) 

 

湯治場の石段上の境内に芭蕉の句碑はひそとありたり

 

茂吉、鉄幹、晶子、文明の碑が並ぶ草津ゆかりの百人として

 

ティンパニをかかえて降りる階段が最初の試練コンクールの朝は

 

ベルが鳴るステージ袖の緊張は呼吸ひとつでほぐされてゆく

 

来年の元旦はうるう秒実施の日一秒長く初夢を見ん

 

歌会記に歌が紹介されました。

感想などお聞かせいただけるとうれしいです。

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「鍋ラボ in the 詩ty」に参加しました

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

ゆとり世代歌人YUTRICKを主宰し、斬新な企画と新しい短歌を生みだしているなべとびすこさんが上京し、歌会を開くということで「鍋ラボ in the 詩ty」に参加しました。

nabelab00.hatenablog.com

前半は題詠「歌」の歌会です。詠草をホワイトボードに書いてもらい互いの歌を読みあいました。私の出した歌です。

いにしえの歌人の札を並べおきコンマ2秒で畳をはらう(太田青磁)

百人一首の歌はなかなか歌にならずに、何度か推敲していたのですが、「ちはやふる」のイメージが伝わったみたいでうれしかったです。

 今回が「歌会はじめて」という方もいらっしゃいましたが、歌を楽しむことを重視した歌会にしたい、というなべとびすこさんの進め方もあり、なごやかに、でも言いたいと思ったことが言える、あたたかい歌会でした。

破調の歌もいくつかあったのですが、歌意を聞きあう時間があり、それぞれの歌に込めた思いを聞くことができました。知らない歌(定番卒業ソング)を教わったり、「普段は破調では詠まないけどなべとびすこさんの歌会だから攻めてみた」という意見が聞けたことも興味深く感じました。

後半は「ミソヒトサジ」というカードゲームで遊びました。「ミソヒトサジ」は5音の札と7音の札を組み合わせて短歌を作るという、偶然短歌を彷彿させるようなカードゲームです。遊び方とそのときに生まれた歌をいくつか。

①ポーカーのように5枚の手札を交換しながら短歌を作る

胃が痛いメロンを食べるその手つきその瞳さえ噛み応えあり

メロンくらいしか食べられない胃の痛さを、「その」のリフレインと限定の「さえ」を用いてたたみ掛けるよう自虐的に歌っている。

②7音カードで下の句の2枚決めておき、配られた手札で上の句を作る

猜疑心なくなるまではパーリナイそうと決まればSNS

主体は何かを押し殺すように一夜の享楽を味わったのであろう。高すぎるテンションのまま投稿したSNSの記事にペーソスを感じる。

③二句目を固定し、各自配られた手札から一枚ずつ出し、短歌を合作する

消費税なんと切ない燃えるゴミ巡り巡ってカクテルになれ 

長く使えるものよりも安かろう悪かろうを選んでしまう消費社会を覚めた目線で観察しているのだろうか。ゴミが集められ処分場で混ざりゆく様子を命令形で強く言い切っている。

 シュールでちょっとポエジーがある歌が次々に生まれ、お互いにいいと思う歌を選びあうのも楽しめる時間でした。

参加者が自由に書き込める白紙カードがあって、オリジナルなパーツを入れて楽しめるのもゲームの面白いところです。

 

歌会や読書会はもちろん楽しいのですが、カードゲームで普段使わない部分を刺激するのも楽しい経験となりました。

私も「ミソヒトサジ」を入手しましたので、これで遊んでみたいという人はぜひお声がけください。

なべとびすこさん、参加された皆さま、どうもありがとうございました。

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「短歌の本音」が公開されました

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

インターネットで短歌を楽しんでいる方々と一緒に、短歌のエッセイを出しています。企画力・編集力抜群の中村成志さんの編集です。

執筆はchariさん・中牧正太さん・牛隆佑さん・笛地静恵さん・泳二さん・篠田くらげさん・太田の7名です。

 

・短歌を詠む日常を描いたショートストーリー

・「何を詠むか」か「どう詠むか」か

・上達を問うべき人はいったい誰なのか

・結社やインターネットで短歌を読むことのそれぞれ

塚本邦雄論をもとにしたアクロバティックな上達法とは

・今まさに短歌が生まれるプロセスを描いたドキュメンタリー

・短歌の価値を決めるのは作者なのか読者なのか

・短歌にまつわる箴言

 (個人的には「歌は、続けることが大事だよ」という言葉が刺さりました)

 

セブンイレブン (番号 84619270)

2枚を1枚→する 両面→短辺とじ

その他のコンビニ (番号 2YU7RM4QNY)
両面→横とじ

(白黒 120円 9/26(月)まで)

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短歌そのものについて向き合う時間や議論する機会って、なかなか取れなかったりしますよね。ついつい字数を越えて書き過ぎたみたいです。

とはいえ、中村さんが企画をあげて、多くの方の協力があり、「エッセイ」集を形にできたということはうれしい限りです。

お読みくださったすべての方に感謝いたします。

第27代うたの人「奇跡」より

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

第27代「うたの人」から、いくつかの歌を紹介します。今回から「うたの日」の上位の方と、抽選で選ばれた方による選抜歌会になりました。

題は「奇跡」です。

 

特選
眩しさのなかに産まれたひな鳥はキセキ、キセキ、と全身で鳴く(皆川せつ)

このオノマトペは正直、やられたなと思いました。眩しさのなかという一見恵まれた環境にあっても、全身で自己アピールを繰り返すことで、親の愛を勝ち取ろうとする健気さにほだされました。キセキ、キセキのリフレインがひな鳥の親を想う心を喚起し、子どものためにキセキを繰り返して餌を捕まえる親の愛と苦労は、子をもつ身としても打たれるものがあります。

 

並選
奇跡的回復を経てじいちゃんは半分の胃で鰻を食らう(えんどうけいこ)

快気祝いの気持ちの良い歌だと思います。胃を半分摘出してから、徐々に食べものが食べられるように回復しつつ、いよいよ好物の鰻にたどり着くまでの経過が浮かび上がってくるようです。「食らう」という豪快な言葉の選び方もいいなと思いました。

 

並選
総武線しずかにゆれてきみの手のさす方向に虹が出ている(ミルトン)

総武線は千葉方面(上総下総)から東京・神奈川(武蔵・横須賀線)方面へ向かう快速電車と秋葉原から御茶ノ水、新宿方面に向かう黄色い電車があって、どちらかというと黄色い電車のイメージで読みました。電車がゆれたときにふっと差し出した君の手の先に虹が見えたのだと、素直に読む方が結句の「出ている」という何気ない現在形にマッチしているのかなと感じました。

 

並選
「奇跡などと呼ばないようになるまで」と奥地へ向かう医師はわらった(西村湯呑)

公衆衛生が発達していない地域で真摯に医療に取り組まれているひとの発言なのかなと思います。結句の「わらった」は単に「笑って言った」だけではなく、もしかすると奥地から帰ってきていないのかもしれないという印象を初句「奇跡などと」という強い入り方とも合わせて感じました。

 

並選
すれちがう風を奇跡と呼んでいる 無限のそれが世界に満ちて(宮本背水)

これはマラソンや駅伝といった長距離の陸上競技や自転車で長距離を走る感じを想起しました。風とすれ違う感覚はランニングや自転車でも得られ、世界は風に満ちている感覚がとても気持ちが良かったりします。向かい風はしんどい時もありますが、風を切って進む爽快感が気持ちの良さが体感覚を刺激してくるようです。

 

並選
アプリでは神にもなれる人たちの奇跡にあふれ電車は走る(スコヲプ)

これはポケモンGOと電車でGOがかかっているようで楽しいです。世の中のシステムを動かす集合知のような見えない何かが、電車という正確な時間どおりに運行される世界に誇る運行システムを乗客も含めたアプリの力で実現する空想がユニークだなと感じました。近い将来、シンギュラリティなどの技術革新が最適解を生むのではないか、という楽観的な見通しも含めて、黄色をつけたいと思います。

※黄色は並選です

 

出詠されたほかの歌にも評をつけています。ご興味のある方はどうぞ。

http://utanohi.everyday.jp/hito/page.php?id=27

第7回「現代の歌人を読む会」を開催しました(真中朋久さん・東直子さん)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

9月17日の土曜日に第7回現代の歌人を読む会を開催しました。
今回もはじめてご参加くださった方、久しぶりにいらしてくださった方、続けていらしてくださった方、8名で短歌を鑑賞することができました。申込の段階であわやキャンセル待ちとなるかといううれしい悲鳴を上げておりました。

今回は『現代の歌人140』からも真中朋久さんと東直子さんの歌です。

まずは、真中朋久さん

 

たはむれに対旋律をたどりゆくわれ斉唱に従ひがたき

君が火を打てばいちめん火の海となるのであらう枯野だ俺は

子がこゑに読むをし聞けばかな多きわが恋歌の下書きなりき

 一首目、斉唱というものを否定する主体の意思の強さが感じられる。国歌斉唱のイメージも浮かぶが、対旋律という言葉からはもう少し広く抑圧するものへの抵抗と取りたい。たはむれ、対旋律、たどりゆくと揃えられた上の句の頭韻のなめらかさにも下の句の主張を強めているようである。

二首目、火の海からは熱烈な相聞の思いを想起させるのであるが、あくまでも火をつけるのは君であり、俺は枯野だというシニシズムを感じさせる歌です。俺は燃えたいという気持ちが受動的に描かれており、自らの不器用さは歌でしか表現できないのかもしれないのかもしれません。

三首目、書き溜めていた短歌のノートなどを読まれたのであろうか。かな多きは子がわかる言葉だけを読んだとも、恋歌は仮名にひらいた歌が多いともとれ、楽しい回想を浮かばせる。カ行の音が歌の輪郭を作っていて、この歌をも声に出したくなる。

作品を通して、まっすぐ通った自我を通す芯の強さと、家族への温かなまなざし、気象や鉄道などのモチーフを丁寧に描いている印象を受けました。

 

続いて東直子さん

 

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

好きだった世界をみんなつれてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ

わきみずのようによりそう次男坊ゆきどけみずのような三男 

 一首目、剥いた桃の皮を新聞の上に置いているのだろうか。廃村を告げる活字が呼び起こす失われていくものに対する寂寥が、結句の一字空きからの「来て」につながる。観察をしているようで、自己の感情は制御できない何かに触れてしまったのであろうか。「来て」欲しい人は「来てくれない」ことをわかっているようにも感じられる。

二首目、上の句のファンタジックな世界観は論理的にも受け止められる。一方下の句のでは大きな喪失を対岸から見ているような不思議な距離感がある。好きだったものをすべて連れて、あなたのカヌーと一緒に燃えるととれば情念的、カヌーは燃えているから、違う場所で自分の好きだった世界を構築し直そうと読めば、怜悧な女性像が浮かび上がる。

三首目、三兄弟の性格の違いがうまく表現されている。しっかりした長男は描かれなくても安心して見ていられるとして、次男は母の気持ちを汲んで寄り添ってくれる優しい存在。三男は少しやんちゃで怖いもの知らずに先へ先へと進む姿が微笑ましい。

作品を通して、立ち上がる世界観が実景と断層なく連なっているところが東さんの歌の不思議な味わいで、一つ一つのパーツを厳密に説明できないのだけれども、読後感の余韻に包まれて、つい引き込まれてしまう感覚がありました。小鳥のモチーフは美しさと自由さを表しているようで、大人の女性のなかにある少女性が年齢を感じさせないみずみずしさを感じました。東さんの門下の竹内さんが、東さんは韻律重視、声に出した時の気持ちよさは極めて大事と言っていたのもすごく伝わってくるものがありました。

 

記録は記憶が残っているうちに書いておくのが大事ですね。時間が経つと、会の場で話したことと、読み直した自分の感想が一緒になってしまい、独りよがりになりがちなのですが、今回は記憶を振り返りつつ少し引用する歌も増やして、まとめてみました。

 

今回で、7回14名の歌人を取り上げたことになり、ようやく10%進んだことになります。正直、アンソロジーをよむというわりと地味な企画に、人が集まってくれるのだろうかという心配をよそに、リピートしてくださる方には頭が上がりません。

 

次回はついに俵万智さんと荻原裕幸さんです。さすがに2時間では終わりそうにないので、休憩込みで3~4時間くらいかけて、『現代の歌人140』『現代短歌の鑑賞101』のほか『Tri』や『率』の特集号なども参考資料として、ライトバースに切り込んでいきたいです。

 

その後も、次々回が穂村さん、その次が大辻隆弘さん、少し空いて加藤治郎さん米川千嘉子さんと、現代の短歌シーンを引っ張ってくださっている方々が続きます。この豊饒な時代の歌を皆さんと読んでいくことは楽しみでもあります。

 

日程など決まりましたら、順次告知いたします。ご興味のある方は

メール:seijiota1203☆gmail.com

ツイッター:@seijiota

ブログのコメント欄などに連絡をくだされば、

優先的にご案内させていただきます。

 

今回のご参加いただいた皆様さま、二次会に駆けつけてくださった皆さま、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

現代の歌人140

現代の歌人140

 

 

武田穂佳「空が明るい」 第59回短歌研究新人賞作を読んで

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

 

短歌研究9月号は新人賞の発表号となるため、書店からあっという間に売れてしまうようです。今年の新人賞は象短歌会・早稲田短歌会に所属されている武田穂佳さんの「いつも明るい」でした。

 

最初に読んだ感想として、一読すっと読めてしまい、情景が明るいのはわかるのだけど、どこかものたりなさを感じる印象でした。

文体として、一字空けが11首、文末または字空けの前が「る」で終わる歌が14首、「夕焼け」、「校庭」、「毛糸」、「ペニス」、「神秘」、「日」、「ペニチュア」、「霧雨」、「夕べ」、「消えるもの」、「時間」と体言止めが11首もあって、さらにハートマークが勢いよく目に入ってきて、新人賞はこういう歌が選ばれるのかと少しびっくりしてしまいました。

 

反面、選考委員全員が4位以上で採っているからには、自分に気がつかない何かがあるはずだと、もう一度じっくりと読み返してみました。

 ストレートパーマを君があてたから春が途中で新しくなる

柔らかい雨降りました君のため船のプラモを買った帰りに

素直な相聞で始まる導入です。「ストレートパーマ」という明るい語感の言葉を「あてる」という明るい動詞で受けながら、春が新しくなるという少し不思議な感覚を浮かび上がらせています。パーマは、かけるのか、あてるのかは地方によっても世代によっても使い分けがされているようですが、この歌には「あてる」がきれいに響いています。

二首目も君への歌です。「君のため」はストレートパーマをあてた君にとっての「柔らかい雨」とも、君のために「船のプラモ」を買ったともとれる掛詞のような味わいのある歌です。「ストレートパーマ」「プラモ」はともに半濁音を含む「明るい」語感の言葉が連なります。

 休憩の八つの個室それぞれに違う女生徒いることの神秘

携帯をあまり触らない友達のポニーテールは川に似ている

八つの個室はどことは明示されないものの、周囲を冷静に観察する作者の視点が見える歌です。「女生徒いることの神秘」はやや硬い印象ですが、「それぞれに違う女生徒」のひとりのどこか筋の通った姿勢を次の歌で具体的に描いています。「ポニーテール」と「似ている」の脚韻もさわやかで、ここでも「神秘」「ポニーテール」と半濁音が並んでいます。

 わたしがわたしを守ってあげる シャーペンの芯を多めに入れる 

鏡台の椅子の木目を撫でまくる やさしいひとにやさしくしたい

この二首は上の句と下の句がそれぞれの文になっています。「わたし」「やさしい」のリフレインに加えて、抽象-具体、具体ー抽象という対の構造が浮かびます。わたしの歌はシャーペンで自分の書く言葉が、自分自身と外界とを隔てる心理的な防御になっているのだと感じました。ここでも登場する半濁音が歌を引き締めています。鏡台の歌は撫でまくるに偏愛的な体感覚が描かれています。「やさしくしたい」という気持ちの対象は、あくまでも主体が「やさしいひと」と思う限定された範囲であり、読者はどこか置いていかれるようでもあります。

 

何度か触れていますが、この一連には半濁音が、「ストレートパーマ」、「プラモ」、「ペニス」、「ワンピース」、「47ページ」、「神秘」、「ポニーテール」、「ペニチュア」、「シャーペン」、「いっぱい」、「たんぽぽ」と11首もの歌に使われています。一方で、濁音を多用し重みを感じさせる歌もあり、バランス感覚にも驚きます。

六月の午前授業の放課後のふたりの自転車みずみず光る(4首目)
47ページ図1の実験の人の深爪に気が付いている(12首目)
こんなにもリンゴゼリーは透き通る いじめの順番回ってきた日(15首目)
メリーゴーランドありがとうこんなにも本当みたいに輝く時間(24首目)

 

選考委員座談会を読んで、私の最初の感想は「淡すぎて物足りなく思いました」(栗木さん)「ストレート過ぎてどうでしょうか」(加藤さん)に近いものでしたが、改めて読み返して「さらに何首か〇をつけられそうなぐらい、いいと思える歌が多かったです」(穂村さん)、「それにしても全体として採れる歌が多くて魅力的だと思いました」(米川さん)と上位で選んだ方が、一首一首を丁寧に評価されていることが印象に残りました。

 

加藤さんの読みはすごく個性的で、作者の内面を何とか読み解こうとされている感じを受けました。「秋の欠落は気になります」「きっと深い孤立感があるのではないか」「作者の家族の不在が印象付けられました」「国道四号線から北国の印象が出てきたので、~私は東日本大震災を想起しました」

他の選考委員の方からはそれぞれ

「家族はいるんじゃないの?」(穂村さん)

「そこまで物語は感じませんけど……」(米川さん)

「そんな、無理に悲劇に結びつけなくても」(栗木さん)

と、否定されているのですが、あえて「物語読み」をすることで、作者の今後の実作のテーマとなるような項目を丁寧に拾い上げているのかもしれないと感じました。

 

やはり、一首一首のクオリティが大切だということと、作品の配置のバランスなど細かく読まないと見過ごしてしまうことがたくさんあるのだなと思いました。選考委員の評を合わせて読むことで、ひとりで読むよりも深い感覚を得られたのかもしれません。

 

私自身は連作はとても苦手で、まだ三十首以上の連作にチャレンジしたことはないのですが、徐々に連作を作ることを意識していきたいなと思います。

武田さん、受賞おめでとうございました。

短歌研究 2016年 09 月号 [雑誌]

短歌研究 2016年 09 月号 [雑誌]

 

 

「空の青海のあを」は「海の青そらのあを」だった

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
/『海の声』『別離』若山牧水 

空の青さにも海の青さにも染まらずに漂っている白い鳥は哀しくはないのだろうか(とわたしには思えてならない)

 

このような有名な歌を改めて読み直すまでもないのであるが、白鳥は単数か複数か、白鳥が漂っているのはどこだろうか、というアンケートがタイムラインを流れてきた。

 

まずは、主体と白鳥の関係性を考える。「哀しからずや」と強めて言うからには、主体の感情を投影している白鳥は一羽であると取りたい。

 

次に場所を考える。白鳥の動きをあらわしている「ただよう」を辞書で調べると、空中、水中どちらでも使われることがわかる。

【漂う】
空中や水中に浮いて、風や波などに、運ばれるままに動く。「舟は波間を—った」「雲が—う」

 

「運ばれるままに」というからには、白鳥が自身の力では飛んだり泳いだりしていない印象を受ける。

 

また、空と海の関係性については、順序や表記の差はあるものの全くの対句になっているため、白鳥のいる場所は空と海との境界の海面にある、すなわち浮いていると取りたい。

 

というようなことを思っていたところ、牧水の名歌は初出から歌集に収録される際に改稿されていることを知った。

 

 

白鳥(はくてふ)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ
/『新生』明治四十年十二月 

海の青さにも空の青さにも染まらずに漂っているハクチョウは哀しくはないのだろうか(とわたしには思えてならない)

 

初出では鳥はハクチョウと限定されており、そらが開かれているとともに、「海」と「そら」の順序が逆であったのだ。

 

白鳥は哀しからずや海の青

上の句だけでも真っ青な海上にいる白鳥の白さがコントラストを持って伝わってくる。

 

そらのあをにも染まずただよふ

 改稿後の歌の印象がありきとはいえ、比較すると下の句は少しぼやけてしまうのは、かな書きの多さやそらと染まずの<so-a音>のつながりもあるのかもしれない。

 

あらためて、改稿後の歌を読む。

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 

 まず「空」が提示され、続いて「海」が出てくることによって、読者の視点は上から下に向かうことになる。この視線の動きも哀しさをいっそう強めている。

 

「青」よりも「あを」のほうが暗く深い印象があり、この表記の変更は、空の明るさと海と暗さの対比をも強めることになっているのだとも感じられる。

 

多くの方が、鳥は飛んでいると鑑賞されていて、確かにそうとも読めるよなと思っていたのだが、

 

白鳥は哀しからずや空の青 

 上の句の段階で、景は読者の中で明確に描かれていて

 

海のあをにも染まずただよふ

 下の句を合わせて読むことで、鳥は海面すれすれを飛んでいるという素敵な解釈につながるのだと考えると、短歌という一方向にしか言葉をつなげることができない詩型にとって、語順による動線のコントロールは極めて大事だなとおもう。