太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

短歌人夏季全国集会(2017)に参加しました。(2)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

引き続き、夏季集会の話題をいくつか。

「いい歌バトル@宇都宮」では、台本のない進行はやはり盛り上がるものだなあと思いました。運営については、外部の方にいらしていただくのであれば、受付は準備しましょうとか、リハーサルはしておきましょう、とかあるのですが、短歌人のイベントに来てくださる方はきっとその辺のゆるさを受け入れてくれる方々なので、ほどよく場が馴染んでいく感じも楽しめました。

内山さんは別格として、角山さん、黒崎さん、大平さんの選歌・選評が実直な感じがして、同じ結社のすこし前を走っている方々の歌への向き合い方がよくわかる会だったのをうれしく思いました。全体的には「いい歌」について語る会なので、ビンテージチームの「この歌人がこんな歌をこんな媒体で」というのはアンフェアかなと思ったのですが、フレッシュチームがそこを突き破るにはちょっと勢い負けしてしまったのかもしれません。

宇都宮さんの重みのあるジャブは速すぎて、捉えきれなかったところは自分の中の土壌が足りない感じもありました。服部さんの素敵な衣装と全能感のある語り口を聞けたのはよかったです。十二者十二様の短歌観が重なり合って、短歌人らしいイベントになりました。

続いて、パーティーと授賞式です。髙瀬賞は浪江まき子さんの「光のあわい」、評論・エッセイ賞は桑原憂太郎さんの「高瀬一誌のエロス」と泉慶章さんの「「歌よみに与ふる書」が問いかけるもの」となりました。あらためましておめでとうございます。今年は両方に応募したのですが、どちらも力及ばずでした。また応募しようと思います。髙瀬賞に応募した短歌は編集委員の今井さんと紺野さんから激励を受けました。この方向で自分のスタイルを作りあげていこうと思いました。

パーティーでは、神戸の西橋さんが、兵庫県歌人クラブの批評会にわたしの書いた南輝子さんの書評を紹介してくださったとのことを伺って、何事も経験だなと実感しました。定期的に書評や歌評を書いていこうと思いました。

買い出しに出かけたあとの深夜サロンでは、小池さんを囲んでいい歌バトルの講評や短歌実作の方法論を熱く語っていただき、それだけで十分すぎるほどぜいたくな時間となりました。各地の方々ともお話ができるとても貴重な時間でした。

二日目は120首を超える数の歌会でした。20首ずつ6回の歌会を繰り返すというめちゃくちゃヘビーな歌会でしたが、東京歌会では普段はしない選歌についての感覚や先行批評や総評をしっかり聞くという体験はやはり結社ならではのもので、新しく入会してくれた方も満足度も高かったらしく、歌会の素晴らしさをあらためて感じました。大きな会でしたが、けっこう発言もできました。服部さんは歌会にもご参加くださって、短歌人にはない読みをたくさんして盛り上げてくれました。

そして、さよならパーティーです。蒔田さくら子さんからも今がいちばんいい時だと伺ってますます楽しみな短歌人です。大平さんと「いい歌バトル」の選歌の話などして盛り上がりました。

新幹線で帰るつもりでいたのですが、多数決に押されるように宇都宮始発の普通電車で、せめてもの贅沢でグリーン車に乗って帰りました。帰りの車内でも歌会の話や連作の話、ネット歌会のあり方などざっくばらんに話しながら東京にたどり着きました。

運営してくださった皆さま、ご参加された皆さま、楽しい時間をありがとうございました。

短歌人夏季全国集会(2017)に参加しました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

8月5日・6日の2日間、短歌人の夏季全国集会が宇都宮で開催されました。

初日は「いい歌バトル」と称した、参加者(短歌人所属歌人10名+ゲスト宇都宮敦さん、服部真里子さん)がここ一年に出版・販売された歌集、総合誌、結社誌、同人誌、新聞などから、自分がいいと思う歌を紹介して、そのいいと思う理由をベテラン(ビンテージチーム)と若手(フレッシュチーム)に分かれて戦う、というエキサイティングな企画でした。

企画の詳細は、短歌人の集会記などで紹介されると思いますので、掲出歌について自分の鑑賞を書いておこうと思います。

老けてゆくわたしの頬を見てほしい夏の鳥影揺らぐさなかに
/大森静佳「鳥影」(角川「短歌」2016年7月号) 

自分の生の変化をありのままに共有してほしいという気持ちが伝わってくる。揺らぐさなかという短い時間の流れは認識の瞬間であり、その認識の連続を老けると表現しているのかと思う。

敗荷(やれはす)をふかくしづめて秋晴れは池のかたちに空を嵌めたり
/都築直子「水のある風景」(「短歌往来」2016年12月号)

空から池を見るという視点の逆転があざやか。池のかたちに切り取られた空が、ジグソーパズルのように蓮の沈む池に嵌まる瞬間をどこから見ているだろうか気になる。

犬がね、とあなた言うたび駆けてくるばくぜんと透明な四つ足
斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(短歌研究社2016) 

あなたは犬の話を何度も繰り返すのだろう。それを聞く主体の中に、じわじわと具体的なイメージを持ちつつある犬を「ばくぜんと透明な四つ足」という不思議な感覚で認識している。

あかねさす紫野ゆきゆきゆきて、神軍けふをとどまらざらむ
水原紫苑ヘブンリーブルー」(「東京新聞」2017年6月24日夕刊) 

映画「ゆきゆきて、神軍」のタイトルを額田王本歌取りかつ掛詞で示す。現代の世相を切りとっているのは事実だろうが、20年前の映画は読者を選ぶ歌でもある。

この世から少しずつ指が消えてゆくようなひもじさに春雨が降る
/花山周子「季節の歌 4月」(角川「短歌」2017年6月号) 

春雨の日のひもじさという感覚を指が消えるという茫漠とした身体感覚で表す。二句から四句にゆるやかに句またがりがあり、五音の重なりが複層的なリズムを生んでいる。

悔しさのひとつふたつと詰めゆけば蛍袋が満席といふ
/大森益雄「整理袋」(「短歌人」2016年8月号) 

日々の悔しさをひょうひょうとした口調でひとつふたつと数えている主体には、確かに満席と言っている蛍袋のようなものがある。とはいえ、何かもっと大きな袋があるような懐の広さを感じる。

きみならもっとうまくやれるさ藻のなかから雛人形を取り出すように
/小田島了「春の形骸」(同人誌「よい島」2017年)

絡みあった藻の中から雛人形を取り出すという地道で繊細なことができるきみ。そんなきみへのエールなのか。マ行とナ行のこもる音の連なりが三句の字余りを一気に読ませる。

ひとり居のひとなき日向もしもしとわれにでんわす何してゐます
/馬場あき子『渾沌の鬱』(砂子屋書房2016年) 

ヒの頭韻の五、四、三音から電話のもしもしにつながる上句。事実を文語で、発話を口語でスの脚韻の対句で示す下句。自分に電話するという自己認識の喪失の不安を明るく描いている。

 

秋空に秋空大の穴をみきすなはちわれは失神をしぬ
渡辺松男「夕枯野」(角川「短歌」2017年3月号) 

空をみる自分、穴をみる自分、失神をしている自分、それを認識している自分がコマ送りにつながる。秋空と秋空大の穴という表裏一体の景に失神したときの世界が反転する感覚の重なりがある。

九十(ここのそぢ)なかばに近く身は老いて なほぞかなしく 人を思へり
岡野弘彦「恋も桜も おのづからなる」(「歌壇」2017年3月号) 

感覚としては、ほんとうかよという気持ちとそうありたいなという気持ちが半々だろうか。一字空けはゆったりと間を取って、なほぞの強調を味わいたい。

〈おかえり〉がすき 待たされて金色のとおい即位に目をつむるのさ
/井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房2016年) 

〈おかえり〉は概念として繰り返される挨拶だろうか。一字空け以降は、待つ主体の感覚か。軽い口調から、金色のとおい即位は帰ってきた瞬間の高揚感なのかもしれない。

爪楊枝のはじめの一本抜かんとし集団的な抵抗に会ふ
/花山多佳子『晴れ・風あり』(短歌研究社2016年)

誰でも一度は経験するであろう日常の気づきを、あたかも社会における個人への抵抗とも取れるような書き方で示す。物理的にはもちろん、同調圧力の非常に高い近年の肌感覚にも感じられる。

 

(各歌の鑑賞はわたしが個人的に書いたものであり、参加者の発言ではないことご留意ください)

対戦カードの詳細はこちらをご覧ください。

【再掲】 2017年夏季全国集会 講演一般公開のお知らせ | 短歌人告知板 | 552

短歌人2017年8月号

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の月詠です。

歌人2017年8月号 会員2(太田青磁

納会は納涼船なり桟橋に職責順に社員居ならべり

舳先にて橋をくぐりぬ その橋の横顔しばし見つめていたり

スマートフォンの激しく割れた画面見るわれのからだは無傷なれども

壜でくるビールをひとり手酌せり歌会の選の是非を問いつつ

この階段を下りてきたのか違うのか中二階のある居酒屋に迷う

 

5月から連載していたBook Reviewは最終回です。今月は南輝子さんの『WAR IS OVER!百首』です。

seijiota.hatenablog.com

 

ご一読いただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。

書評『WAR IS OVER! 百首』南輝子歌集

ふめば肉体につたはるうおんうおん桜花ふみしむ父踏むやうに
しやりしやりと舎利骨片の音させてこよひ喪の戸へ銀河ふりしく

南輝子の第四歌集は、一冊を通じて亡き父への挽歌であり、平和をこいねがう鎮魂歌で構成されている。桜や骨といった失われた命を彷彿させる言葉を、オノマトペを多用した純度の高い韻律でまとめあげているが、父を失った悲しみは癒えることなく作品に翳を残している。

父がゆする南十字星は夜を越え極東亞細亞に悲しみを生む
あの時もきつと青空はちぐわつのジャワ・ジャカルタの父の青空

赤道を照らす南十字星と抜けるような青空が時空を越えて突き刺さってくるような二首。併録されたエッセイ「イカニツナゲシヤ」によると、南の父は戦時中ジャカルタの軍需工場の責任者を務めており、終戦後、侵略の報復として蜂起した地元住民により虐殺された。また、その死は国の極秘事項として三十五年間隠蔽されていたという。

ROY‐CWRATONE命がゆらぐ水面から輪廻転生譚のはじまるや
三十六年のちも母を恋ふ邦雄味覚歳時記ゆすらうめの章

玲瓏への入会も作風に大きく影響を与えているのだろう。あとがきで語られるロイクラートンは東南アジアの精霊流しの曲であり、母を恋ふる青年塚本への心寄せからも戦争を強く憎む思いが伝わってくる。

はちぐわつの帽子かぶればいつせいに遠き呻きが駆けよつてくる

この歌集を八月号で紹介できることに不思議な縁を感じている。

(短歌人2017年8月号掲載) 

短歌人東京歌会にて研究会発表をしました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

7/9(日)の東京歌会に参加しました。
詠草は56首とけっこう多めでしたが、活発に歌の批評ができました。
今回は月詠のを選をお願いしている方に批評してもらうことができて、視点や構成などの基本的な要素をもっと意識していきたいなと感じました。
また、新たに入会してくださった方も参加してくれて賑やかな会になりました。

歌会のあとには研究会です。今回はレポーター(デビュー戦)を担当しました。染野太朗さんの『あの日の海』と『人魚』です。
構成は、「日常詠」「職場詠・社会詠」「相聞歌」「家族詠」「病中詠・感情の発露」という切り口に、それぞれの歌集から歌を引用して話すというスタイルでレジュメを作りました。
普段の研究会は20~30名くらいなのですが、今回は40部用意したレジュメがすべてはけるくらいの方に残ってくださり、発表者としても大きな経験ができました。

島田修三の影響がある、私小説的な私を受けとめる覚悟がある、一首一首の言葉が丁寧につながっている、病気によって失ったものと得られたものがあるのではないか、自分のなかの出せなかった部分を出し切った印象がある、率直さの良さはわからない、暴力的な歌は整えられた形式で提示されている、などなど多くの意見をいただきました。

歌会のあとは、懇親会です。出掛けに子どもに釘を刺されていたので、ビールを飲みたい気分をぐっとこらえてジンジャーエールで乾杯です。
渡さん、斉藤さん、葉山さん、山本さんと同じテーブルになり、短歌人のこれまでを教えていただいたり、ベーシックな技術を学ぶ方法を教えていただいたり、口語短歌の方向性を考えるなど、刺激的な時間を過ごしました。

東京歌会は人数が多いゆえにどうしても読みの軸がぶれやすくなるのですが、まずはできるところからボトムアップをしていきましょう、ということを意識して望みたいと思います。最近は、毎月のように見学の方や新入会の方が来るので、いい意味で刺激を受けます。

次回は宇都宮での夏季集会です。いい歌バトルというイベントもあり参加が楽しみです。イベントは一般公開となりますので、ご興味のある方はこちらをご参照ください。

【再掲】 2017年夏季全国集会 講演一般公開のお知らせ | 短歌人告知板 | 552

 どうぞよろしくお願いいたします。

歌集 あの日の海 (まひる野叢書)

歌集 あの日の海 (まひる野叢書)

 
歌集 人魚 (まひる野叢書)

歌集 人魚 (まひる野叢書)

 

サラダ記念日(本歌取り風パロディ)

「この味がいいね」と君がゑゑゑゑゑゑゑゑゑもとは唐揚げだった

にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった

 加藤治郎ハレアカラ』(砂子屋書房

 

「この味がいいね」と君が言ったから「並にサラダをおつけしますか?」

「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか?」

斉藤斎藤『渡辺のわたし』(港の人)

 

「この味がいいね」と君が言ったからすこしづつ液化してゆくサラダ

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ

塚本邦夫『水葬物語』(書肆稲妻屋)

 

「この味がいいね」と君が言ったからえーえんとくちからサラダ

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい

笹井宏之『えーえんとくちから』(PARCO出版

 

「この味がいいね」と君が道を説く寂しからずやサラダ記念日

柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君

与謝野晶子『みだれ髪』(新潮文庫

 

「いいね」と君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつてサラダ記念日

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

河野裕子『森のやうに獣のやうに』(沖積舎

 

佐野朋子のばかころしたろと言ったから七月六日はサラダ記念日

佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず

小池光『日々の思い出』(砂子屋書房『続小池光歌集』)

 

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ七月六日はサラダ記念日

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

穂村弘『ラインマーカーズ』(小学館

 

咲き終へし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をサラダ記念日

咲き終えし薔薇のごとくに青年が汗ばむ胸をさらすを見たり

黒瀬珂瀾『黒耀宮』(ながらみ書房)

 

3番線快速電車が通過します理解できないサラダ記念日

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

中沢系『uta0001.txt』(双風舎

勝手なパロディにて申し訳ありません。何かあればすぐに削除いたします。

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

第16回髙瀬賞受賞作「光のあわい」浪江まき子さん

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

歌人7月号は髙瀬賞(短歌人新人賞)の発表がありました。

今年の受賞作「光のあわい」は一首一首に独自の観察眼があり、自分の視野と自分を俯瞰的に捉える視野の重なりをうまく描きとった歌が多く、都市に生きる生活者の実感が伝わってくる連作でした。浪江まき子さん、あらためて受賞おめでとうございます。

駐車場の〈空〉のドットを意識して見る8時間労働のあと

〈空〉は空車ありであり、ドットから電光掲示板であることがわかる。日常の些末な光景であるが、仕事を終えた主体の目に〈空〉はこの駐車場にはまだ仕事があるのだと捉えたのかもしれない。

夜明け前電子レンジの明るさで昨日のグラスをかるくすすいだ

寝つけなかった夜なのか、起きてしまった朝なのか。タイトルを想起させる光のあわいの明るさである。とりとめのない日常を点描的にスケッチしており、かるくが早朝らしさを導いている。

サイコロにならない展開図のように満員電車でまぶたを閉じる

サイコロにならないというところにラッシュと正面から戦わない主体の軽い自虐がある。下の句の頭韻には、そんな自分と世界とのずれを静かに能動的に遮断する主体の思いが伺える。

よく笑いよく相槌をうちながらマウスをぬぐう除菌ティッシュ

この歌にも外に見せる自己と潔癖な内面のギャップがうまく出ている。意識は除菌ティッシュに向きながらも、あえて笑顔の仮面をつけることで社会と自己のバランスを取っているようだ。

スマホの隅の豊胸サプリの広告をせっかくなのでしっかりと読む

まずこの広告に歌材として目がいくという作者の観察眼がひかる。サ行の韻律、特に「せっかく」、「しっかり」の韻が、メタ的な自己への視点を重たくせずに提示している。

先方の社名と同じタイトルの映画のfinのあとの暗闇

仕事の前後の世界が映画のタイトルでつながっているという、都市生活の皮肉な発見がある。それを映画が終わったときにあらためて暗闇で感じるところに、世界の繋ぎ目を示す透徹な視点がある。

本題を切り出す前に保留され「夢見る人」を途中まで聴く

保留音のフォスターが待たされる時間を現実から引き剥がすようである。本題、保留という固めの頭韻の言葉と「夢見る人」の浮遊感のギャップに驚く。現実に戻った主体の違和も浮かぶようだ。

父になる友、独立をする友の喉を通ってゆくレモンハイ

同窓会だろうか。久しぶりに同世代との気兼ねない時間を、喉を通ってゆくという細かな描写で描く。レモンハイに、ビールやウィスキーでは得られない若さとの決別のようなアイテムの選択が手柄である。

ラッセンの覚悟を思う 絵を描いてお金もらって生活をして

この一連に唯一の主体の内面だけを吐露した一首。ラッセンに代表される大衆芸術というジャンルに対する揶揄とも憧憬ともとれる複雑な心情を「て」の口語で、あくまでも軽く歌っている。

もう酔ってもタトゥーの話はしないよね飲み屋のトイレがちゃんと汚い

友人との飲み会の光景であろうか。一連定型の歌が多いなか、68587とあえて言葉をしっかりとこめている。下句の一転して露悪的な場面の描写に現実感が据えつけてられる。

手触りの現実的な夢は覚め知らない名前の野菜を買った

現実感と浮遊感の捉え方がタイトルの光のあわいにもあらわれているのだろう。一見何ともない歌なのだが、生活・仕事・友人との交流と構成された一連を、ひとりの生活に戻す転換の歌でもある。

母に叱られそうな時間の入浴の終わりに窓をわずかにひらく

大胆な句またがりが、母の不在を暗示しているようでもある。「時間の入浴の」とさりげない倒置がリズムを保っている。結句のわずかにひらくに親との関係を暗示しているようでもある。

背表紙を順に読みあげ待っている再配達の再配達を

あてどない時間をどのように過ごすか、そこをいかに客観的に描くか、に作者の自己を見つめる透徹な視座と磨かれた技術を感じる。下の句のリフレインは都市生活の日常を巧みに切り取っているよう。

ベランダに洗濯物を干すごとに視界から消えてゆくせまい墓地

見えるものと見えなくなるものを時間の変化とともにグラデーションのように描いたユニークな一首。下の句の555のリズムとイ段音の重なりが、結句の狭い墓地にリアリティを持たせる。

そこにある光をたしかめるようにネガをかざした朝のひかりに

表題作でもあり、一連を締めくくる一首。写真と短歌の共通点と相違点をあざやかにまとめあげている。たくさんのネガの中から作品を選びとるような手つきも伺える光のリフレインである。

短歌人2017年7月号

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の月詠です。

歌人2017年7月号 会員2(太田青磁

パイプ椅子をたたむ早さを競いおり管弦楽団員なるわれは

ぬばための月なき夜の川面見ゆラフマニノフの二番のピアノ

藤棚が風になびくに目あげればスカイツリーは間近に迫る

333(バーバーバー)の空き瓶狭し午後九時の歌会終わりのベトナム飯店

二十三区のうち十四もの自治体が分割されて1.999倍

2017年5月号掲載歌は作品月評にもSelectionにも載らず力不足を痛感しました。

髙瀬賞応募作も、予選はかろうじて通過したものの本選の6編には一歩及ばず。一首評をいただきました。

ほどけぬように祈りをこめて蝶々の羽の部分をもう一度むすぶ

東京マラソンがテーマである。抽選に当たり(これだけでもすごい!)、参加し、完走するまでを時系列で歌い継ぐ。衒いも韜晦もないが全篇に走ることの喜びが溢れていてすがすがしい一連である。(今井千草)

今井さんありがとうございました。

5月から4回連載でBook Reviewを担当しています。今月は『古歌そぞろ歩き』です。

seijiota.hatenablog.com

こちらも合わせてよろしくお願いいたします。 

 

f:id:seijiota:20170628235812j:plain デザインを一新したスタイリッシュな短歌人もよろしくお願いいたします。

書評『古歌そぞろ歩き』島田修三

 著者は愛知淑徳大学学長であり、「まひる野」編集委員を長年にわたって務める古代和歌研究の第一人者である。本書は記紀万葉から近世までの古歌を広く一般読者に紹介した足掛け四年にわたる連載をまとめた一冊。「春、夏、秋、冬、賀、相聞・恋、挽歌・哀傷歌、旅、雑歌」と広く題材をとりながら、特定の時代に片寄ることなく折々の名歌、秀歌二百首を深い造詣をもって丁寧に鑑賞している。

 春は志貴皇子「石(いは)走(ばし)る」の歌から始まる。「声に出して読みあげてみると、凛と張って、しかも伸びやかな調べがなんとも心地よい」と歌としての韻律の良さとともに、ひとつひとつの言葉や歌の背景を解説しており引き込まれる。春には菫、梅、桜と花の歌が多く取り上げられており、花鳥風月を愛でる古来の営みを感じさせる。

 相聞・恋の歌では、百人一首でもおなじみの平兼盛「忍ぶれど」と壬生忠見「恋すてふ」の歌が並べられている。これらは「天徳内裏歌合」の題詠「恋」の二首である。判者が評を決めかねて村上天皇の気配を察し、ようやく兼盛の勝ちが決まったというエピソードも合わせて読むと、古歌がより身近なものに感じられ思わず微笑んでしまう。

 著者あとがきにも「本書には万葉復興期を生きた曾禰好忠源俊頼、また田安宗武良寛、橘曙覧をはじめとする江戸の万葉ぶりの歌人が多い」とあり、万葉から連綿と伝わる歌のエッセンスを現代の歌人に伝えていきたいという思いが溢れるようである。

(短歌人2017年7月号掲載) 

古歌そぞろ歩き

古歌そぞろ歩き

 

歌会についての雑感(1. 感想と批評の違いとは)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

歌会についての雑感として、最近感じていることなどを書きたいと思います。

歌会とはどんな場なのだろうか。わたしが初めて参加した歌会は「うたの日」というインターネット歌会であった。毎日、題が出され、その題をもとに短歌を作る。作った短歌を誰かが見てくれる。票を入れてくださる。コメントを書いてくださる。そのひとつひとつがうれしくて楽しくて、半年ほど「うたの日」への投稿は続いた。

同じころ、わたしは短歌人という結社に入会した。結社がどういうところなのかは全く分かっておらず、毎月十首から十数首を編集委員の方に送り、ある歌は添削され、またある歌はそのまま結社誌に掲載された。その編集委員の方からは入会して数か月くらい経ってから、歌会に参加しませんか、とのお誘いを受けるようになっていた。歌会がどういうことをするのか全く分かっていなかったわたしは、「うたの日」に参加することで、誰かに歌を読んでもらえるという部分は満たされていたのかもしれないし、当時は不定休の勤務体系でもあり、何となく気おくれもあり、知っている人が誰もいない歌会に行くのは正直こわいと思っていた。

だが、結社の新年歌会を業務上の都合で参加できないと伝えたときは、せっかく結社に入ったのだからなんとか都合をつけて歌会に行くべきではないだろうか、という気分になっていた。そして3月の短歌人東京歌会にはじめて参加した。

はじめて参加した歌会は熱気にあふれていた。活発な話し合いが行われていて、とても楽しそうだとおもった。しかしながら、概ね文語旧仮名で書かれた詠草は「うたの日」で見ていた歌とは、まったく違うフィールドの作品であるように思われた。当時の自分が何を発言したのかはあまりよく覚えていない。また、自分が出した歌は下手であっても理解されないことはないだろうと思っていた。予想を裏切るかのように、自分の歌は自分の意図したようには読まれなかったのに衝撃を受けた。また、短歌人東京歌会では選がないのでどの歌がいい歌でどの歌がそうでないのかは、歌会の最中にはまったく手がかりすらわからなかった。

この時の衝撃は今でも忘れられない。

翻ってみると、インターネットの歌会には、日常的にインターネットを使ってコミュニケーションをしている人が集まっていて、歌の内容もある程度わかるし、いただいたコメントも多くは共感を伝えてくれるものであったと思う。そこは批評というよりは感想が飛び交う場であり、それでも自分の歌に目をとめてくれる人がいることに満足感を持って参加していたのだと思う。

歌人の東京歌会に何度か参加するうちに、結社内の勉強会へのお誘いを受けることになった。おおよそ50人があつまる東京歌会に比べて、数人から十数人で開催される勉強会での歌会はとても密度の濃いものであった。その席では、基本的にすべての歌を全員が評する形式であり、一首の構造を丁寧に解釈し、使われている言葉の斡旋や助詞・助動詞の用法に至るまで細かく読むという体験をした。自分の歌をまるで別の誰かが作っているように語るのも最初の経験だった。

このときはじめて、解釈と鑑賞の違い、感想と批評の違いを実感したのだと思う。

さまざまな形式の歌会があり、その歌会は進め方も違えば司会の裁量も違い、ひとくちに「歌会とはこういうものだ」という言葉でまとめることはできない。あるスタイルの歌会に続けて参加していると、その歌会、その進め方こそがすべての歌会のルールであるかのように感じてしまうのはとてもよく分かる。また、自分の短歌観を身につけていればいるほど、同席する参加者にも同じような熱量を期待してしまうのもまた素直な感慨なのだと思う。

ただ、一歩立ち止まってみてほしい。

もし仮にあなたが短歌をはじめて二年目、文芸部や短歌会であれば二年生、結社に所属しているならば、例月の歌会に同席している人には名前や作風を覚えてもらいはじめていた頃を思い出してほしい。そんなときに「短歌っておもしろいんですか、歌会ってどんなところなんですか」という質問を、短歌をはじめたばかりの人や歌会にあまり出たことがない人から受けたら、まず自分が参加している歌会に見学に来てもらいたいと思うのではないだろうか。

そして、その時に誘って参加してくれた人が、ある歌について精一杯の勇気を持って感想を述べたときに、あなたの上級生や先輩、ベテランの方が、「歌会は批評をするところであって感想を言いあう場所じゃない」とか「選は <優れた歌> に入れるのだから、好き嫌いで選ぶなんて誠実じゃない」などと言ったとしたらどのように感じるだろうか。同じように、自分がはじめて参加した歌会でそのように言われたらどう感じるのだろうか。

批評の言葉を覚えたてで使ってみたい、という趣旨の発言であれば、そういう時期はあるよね、とは思う。でも、何年も短歌を続けて自分の言葉で批評ができる人が、そうでない人を公の場で非難するのは、ボクシングを何年もやっている人がいきなり殴りつけてきて、「あなたもボクシングをはじめているならこんなパンチはかわせるでしょう、何なら殴り返してきてくださいよ」と言っているように感じるのである。

わたしが二年生の立場で上級生や先輩に、二年目の立場でベテランの方に期待したいのは、「感想を言ってくれてありがとう、わたしはこんな歌だとよみました。この歌はこういうところが作者の工夫だね。でもここはこの言葉だと全体に対してちょっとずれるかな」などといった、解釈と鑑賞の違い、感想と批評の違いをはじめての人でも分かるように具体的に説明してくれるような発言ではないだろうか。

批評はむずかしいし、誰もがどんな歌でも的確に批評ができるとは思わない。よく知った言葉があれば、解釈を飛ばして自分の世界に入ってしまうこともあるだろう。また、どんな歌が並んでいても、その場で本当に優れた歌を選ぶことも同じように極めてむずかしいのではないか。ある人の感想が別の人の批評を生むきっかけになることもあるし、「わからない」という発言がその歌の論点の糸口になることもある。言葉にできない「好き」のエネルギーを共有することにも意味はあると信じたい。

自分のフィールドで歌会をやっているのであれば、会の暗黙知を共有することは十分に可能であるし、同席した人の歌歴や短歌観を知りつつ深い議論をすることができると思う。ただ、その方法論がすべての場所で通じるかどうかは慎重に見定めてほしい。言葉は鋭利な武器になりうることは、短歌に限らず文芸を何年もやっている人には言うまでもないことだと思うけれども。

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