太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

わからない歌をよむ

こんにちは、短歌人の太田青磁です。
歌人2018年3月号の雁信に斉藤斎藤さんが次のように述べています。

短歌がうまくなるには、歌集をたくさん読むとよい。それも好きな歌集ではなく苦手な歌集、上手いけれども好きになれない歌集を読むとよい。

短歌を始めてそろそろ4年が経とうとしているのですが、同じくらいにはじめたの多くの方が、穂村弘さんの歌がよいと言っているのに、なぜかうまく読みきれない感じがありました。いいといわれている歌を読みなおして、どうして苦手なのかを考えてみます。

 

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」

よってるの
わたしがだれか
わかってる

ぶうふうううの
ううじゃないかな

発話者が二人いる。酔ってるか酔ってないか、わかってるかわかってないか、この4パターンのどの可能性も否定できない。「ブーフーウー」は三匹のこぶたをモチーフにしたぬいぐるみ人形劇。ウーは一番のしっかり者らしい。

 

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死

こいびとの
こいびとのこい
ひとのこい
ひとのこいびとの
こいびとのし

韻律の要請にしたがって、二句と三句を切る。「恋人の恋人の恋」思っている人が思っている人の恋である。これを考えてしまうのは切ない「人の恋人の恋人の死」死が提示されることで「恋人の恋人の恋」がずっしりと重みをもつ。

 

きがくるうまえにからだをつかってね かよっていたよあてねふらんせ

きがくるう
まえにからだを
つかってね

かよっていたよ
あてねふらんせ

「ね」と「よ」の呼びかけは、誰に向けられているのだろうか。気が狂うことをあらかじめわかっているのも不気味である。通っていた(過去)体を使う(未来)気が狂う(さらに先の未来)と時間をさかのぼるように書かれている。

 

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち

はろおよる

はろおしずかな
しもばしら

はろおかっぷぬう
-どるのえびたち

夜はわかる。静かな霜柱も韻を踏んでいて、北国の夜のイメージが伝わってくる。なぜカップヌードルの海老たちが出てくるのだろうか。句跨がりのリズムも複数形の海老も韻律として無理なく入ってくるのに景が浮かばない。

この歌についてはいくつかの言及があり、ふたつの読みをしてみました。

①(冬の夜にカップヌードルを手に外へ出る)上を向いて「ハロー 夜」と呼びかける。下を向いて「ハロー 静かな霜柱」と呼びかける。そして、手に持ったカップヌードルに向かって「ハロー カップヌードルの海老たち」と呼びかける。

②(冬の帰り道)ああ夜だなあ。(足元の感触から)ああ静かな霜柱だなあ。(家に帰ってカップヌードルに湯を注ぎ)カップヌードルには海老は複数入っているのに、わたしはひとりなのだなあ。

場面を固定するとシュールな景になってしまうのですが、場面がいくつかあると捉えると、冬の夜のたったひとりの孤独を感じることができました。

尾崎放哉の〈咳をしても一人〉に通じる世界があるのかもしれません。

 

感想などありましたら聞かせてください。