太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

字空けの効果について

こんにちは、短歌人の太田青磁です。
このところタイムラインに流れてくる歌になんとなく一字空けがたくさん使われているように感じています。その一字空けが本当に必要なのかなあ、と余計なことを感じたりしているのですが、では何が効果的な一字空けなのかと考えてみます。一字空け(二字空けや句読点との組み合わせを含め)が効果的に決まっていると思う歌を引用します。

ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挟んだままのノート硬くて
永田紅『日輪』

ああきみが
とおいよつきよ

したじきを
はさんだままの
のおとかたくて

5-7-(1)-5-7-7

距離を示す一字空けである。物理的なのか心理的なのかは示されないが、遠い君を思う気持ちは、月夜の冴えわたるような空気と下敷きの硬質な感じに遮られて、切なさを伴って訴えてくる。整った韻律のなか「ああ」という詠嘆の入りに対して、一首全体のオ段音の籠もった音がもどかしさを伝えてくる。

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり きて
東直子『春原さんのリコーダー』

はいそんを
つげるかつじに
もものかわ
ふれればにじみ
-ゆくばかり きて

5-7-5-4-8-(1)-2

場面の転換となる一字空けである。新聞の上で桃の皮を剥いているのであろう。桃の果汁によって文字が滲む、その濃密さが主体の何かに訴え、思わず「きて」と声を発したのかもしれない。空虚な廃村の記事から桃、そして主体の心へと一気にテンションが高まっているのが、句またがりと一字空けで示される。

この春のあらすじだけが美しい 海藻サラダを灯の下に置く
吉川宏志『夜光』

このはるの
あらすじだけが
うつくしい

かいそうさらだを
ひのしたにおく

5-7-5-(1)-8-7

意味の一意性のための一字空けである。美しいは海藻サラダに掛かるのではなく、終止形で独立している。上句の抽象的なイメージを下句の具体的な主体の行為で受ける構造であるが、上句は「この」「だけが」とふたつも限定の言葉が使われているが、下句との呼応や「あらすじ」をどう捉えるかは読者に委ねられている。

月を見つけて月いいよねと君が言う  ぼくはこっちだからじゃあまたね/永井祐『日本の中で楽しく暮らす』

つきをみつけて
つきいいよねと
きみがいう


ぼくはこっちだから
じゃあまたね

7-7-5-(2)-9-5

月をみつけた君の声によって主体も上を向く。そしていっしょに月を見たあとで、自分の帰り道をこっちだからと示す。二字空けというたっぷりとした時間の中に、視線が上から後ろへまわるような感覚がある。そして、下句の三連符のような9音ののちの5音の欠落感にも、二字空けが余韻として効いている。

うつむいて並。 とつぶやいた男は激しい素顔となった
斉藤斎藤『渡辺のわたし』

うつむいて
なみ    と
つぶやいた
おとこははげしい
すがおとなった

5-(2+4+1)-5-8-7

一字空けが1音のモーラになることは韻律の感覚としてよくわかる。句点はほぼ倍の効果がある。この歌では、句点+一字空けを4音のモーラと捉えるとほぼ定型として読むことができる。声だけの男が激しい素顔に変わるその瞬間を、無音の時間として示すことで、牛丼屋の日常風景を浮かびあがらせている。