太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

短歌人夏季全国集会 いい歌バトルプレが開催されていました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

いい歌バトル@宇都宮には、短歌人以外の結社や同人などで活躍されている方々にもたくさん見学に来てくださいました。なかでも、伊舎堂仁さん、睦月都さん、伝右川伝右さんが、短歌人歌人の歌を持ち寄って

note.mu

というイベントを開催してくれていたようです。

https://note.mu/gegegege_/n/ndc565192f1c9

夏季集会のはじまる前、わたしは同じ結社の方たちと大谷資料館(大谷石地下採掘場跡)を見学し、餃子を食べて臨戦態勢を作っていたのですが、短歌が好きな人はほんとうに短歌が好きなんだなあと。

バトルの内容は伊舎堂さんが丁寧にまとめてくださっているのですが、短歌人のひとりとしてこのバトルの感想戦をしてみようと思いました。

●伝右川伝右 選歌

なめらかにくぼんだ石の箸置きが指にやさしい飲み会だった
山本まとも

こわれてから捨てるキッチンタイマーのうさぎの顔のかたちしずかな
大平千賀

●伊舎堂 仁 選歌

鳴くだけの事ぁ鳴いたらちからをぬいてあおむけに落ちてゆく蝉ナイス
斉藤斎藤

夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして
小池光 

●睦月都 選歌

うまそうな食事の匂いをつくる人はやはり男の五十代だったな
髙瀬一誌

定住の家をもたねば朝に夜にシシリイの薔薇やマジョルカの花
斎藤史  

 まず、この歌人のセレクトですが、 伝右川伝右さんが紹介した歌人は【短歌人を担うホープ】、伊舎堂仁さんが紹介した歌人は名実ともに【短歌人の顔】、睦月都さんが紹介した歌人は【短歌人の礎となった方】であるのがユニークだなと思いました。失礼ながら、敬称略で紹介をします。

山本まともは、実は先月に短歌人入会を決めたばかりの新人である。ではあるが数年前より短歌人の勉強会に精力的に参加しており、同世代の仲間からはようやく決断してくれたとの期待が高い歌人である。掲出歌は2014年の短歌研究新人賞候補作「デジャ毛」から。日常の違和を巧みにすくいあげている。

大平千賀は2017年「利き手に触れる」により第28回歌壇賞を受賞した、短歌人の今後を背負う注目の歌人である。短歌人所属歌人の総合誌新人賞は14年ぶりの快挙。掲出歌は短歌人8月号の20代・30代競詠にで発表されたまさに最新作である。ものの確かな手ざわりをつかむ実直な歌い方が持ち味。

斉藤斎藤は、NHK短歌選者や新感覚短歌としてバラエティ番組にも取り上げられる歌人。掲出歌を含む第一歌集『渡辺のわたし』では鋭い観察眼をどこかユニークな文体で包んでおり、口語短歌の可能性を大きく開いた歌人と言えよう。2017年より短歌人編集委員を務める。近作に『人の道、死ぬと町』。

小池光は、短歌人の重鎮であると同時に歌壇における影響も非常に大きい。掲出歌を含む第二歌集『廃駅』は小池光の抒情が最も先鋭な一冊である。歌材は日常的なものに移ってゆくが物事の本質を捉える視点は鋭い。1968年より現在まで編集委員、1985年から2011年まで短歌人の編集長を務めた。

髙瀬一誌は、亡きあとも髙瀬賞(短歌人新人賞)にその名を残す精神的支柱である。歌集は四冊と少ないが、句がまるごと落ちてしまうような字足らずを特徴とした口語破調は、追随ができないオリジナリティがある。掲出歌は遺歌集『火ダルマ』より。1966年より1985年まで編集人兼発行人を務めた。

斎藤史は、短歌人創刊者である軍人の斎藤劉を父に持ち、十数冊の歌集を持つ現代を代表する歌人である。掲出歌は第一歌集『魚歌』。短歌人はまだ発刊前ではあるが、結社を設立しようとする父への思いも現れていると言えよう。初代編集委員を務めるも、1962年に短歌人を退会し「原型」を創刊した。

これらの歌を読み返すと、やはりいくつかの傾向があって、どの歌も主体の認識で成り立っている感じを受けました。少し長くなりますが、掲出歌を読み返した感想です。

斎藤史の歌は、地中海の花に寄せて自分自身が定住という感覚を持てないでいることを、髙瀬一誌の歌は、食事の匂いからある世代の持つ感覚を再認識しまうことを、小池光の歌は食事という行為を通じて魚の生と死を実感していることを、斉藤斎藤の歌は蝉の生涯の力の入れ加減と死後の蝉への心寄せを、大平千賀の歌は、機能を失ったキッチンタイマーの形状を、山本まともの歌は、宴席での箸置きに触れた体感覚を、それぞれ歌っていて基本的に自己完結している(二人称の不在)があげられるのかと感じました。

昨年の短歌人20代・30代競詠評(2016年11月号)で塔の大森静佳さんが指摘していた「現実の渇きにむきあう」で、職場や家庭など日常生活の息苦しさに向き合う、恋や愛の歌がほとんどないことにも驚く。と書かれていたように、短歌人の社風なのかもしれません。

また、破調の歌が多いなという印象もあります。斎藤史の歌は58687。髙瀬一誌の歌は58679(珍しく字余りです)。小池光は魚を「うを」と読めば57577の定型ですが、個人的には余らせても皿と合わせて「さかな」で57677と読みたいです。斉藤斎藤の歌は57787。大平千賀の歌は67577。山本まともの歌は入会前なので比較してよいのか分かりませんが57577の定型です。ただ、髙瀬一誌と比較した議論で、結句を「だったな」と入れて57578と読んでも、かえって落ち着くような印象も受けます。

夏至の日には定型で(げしのひに)と(うをのちに)が呼応しているのかもしれません:加筆訂正〉

これらの字余りは、それぞれの歌の主体がどこか共通して持つ、日常生活に対する屈託であったり、対象に対する微妙な距離感であったりして、リズムを溜めることによる心の留保を読者に示しているという印象を受けました。

さらに加えると、都市生活者としての視点がどの歌にもあるように感じます。短歌人は「現代を生きて、現在を詠うーー。」という文言を広告に載せているのですが、斎藤史の歌は戦前の歌ながらにして非常にモダンです。他の作者の歌も自己の認識を俯瞰する視座があって、落ち着いた印象を受けるのです。感情は「やはり」「ほのか」「ナイス」「しずかな」「やさしい」と主体のなかにある空間を作って置かれています。

年代も世代も異なる6人の歌から、何かを感じてしまうのは、自分自身が短歌人という結社にいて、その空気を非常に好ましく思っている、といえばそれまでなのですが、図らずもこういう歌をよしとする結社があるということが、外部の方に伝わればうれしいなと思います。

あらためまして、伊舎堂さん、睦月さん、伝右川さん、素敵なバトルをありがとうございました。また、この内容を記録して公開してくださったことにも深く敬意を表します。

長くなりましたが、最後まで読んでくださった方にもありがとうございました。