短歌人夏季全国集会(2017)に参加しました。
8月5日・6日の2日間、短歌人の夏季全国集会が宇都宮で開催されました。
初日は「いい歌バトル」と称した、参加者(短歌人所属歌人10名+ゲスト宇都宮敦さん、服部真里子さん)がここ一年に出版・販売された歌集、総合誌、結社誌、同人誌、新聞などから、自分がいいと思う歌を紹介して、そのいいと思う理由をベテラン(ビンテージチーム)と若手(フレッシュチーム)に分かれて戦う、というエキサイティングな企画でした。
企画の詳細は、短歌人の集会記などで紹介されると思いますので、掲出歌について自分の鑑賞を書いておこうと思います。
老けてゆくわたしの頬を見てほしい夏の鳥影揺らぐさなかに
/大森静佳「鳥影」(角川「短歌」2016年7月号)
自分の生の変化をありのままに共有してほしいという気持ちが伝わってくる。揺らぐさなかという短い時間の流れは認識の瞬間であり、その認識の連続を老けると表現しているのかと思う。
敗荷(やれはす)をふかくしづめて秋晴れは池のかたちに空を嵌めたり
/都築直子「水のある風景」(「短歌往来」2016年12月号)
空から池を見るという視点の逆転があざやか。池のかたちに切り取られた空が、ジグソーパズルのように蓮の沈む池に嵌まる瞬間をどこから見ているだろうか気になる。
あなたは犬の話を何度も繰り返すのだろう。それを聞く主体の中に、じわじわと具体的なイメージを持ちつつある犬を「ばくぜんと透明な四つ足」という不思議な感覚で認識している。
あかねさす紫野ゆきゆきゆきて、神軍けふをとどまらざらむ
/水原紫苑「ヘブンリーブルー」(「東京新聞」2017年6月24日夕刊)
映画「ゆきゆきて、神軍」のタイトルを額田王の本歌取りかつ掛詞で示す。現代の世相を切りとっているのは事実だろうが、20年前の映画は読者を選ぶ歌でもある。
この世から少しずつ指が消えてゆくようなひもじさに春雨が降る
/花山周子「季節の歌 4月」(角川「短歌」2017年6月号)
春雨の日のひもじさという感覚を指が消えるという茫漠とした身体感覚で表す。二句から四句にゆるやかに句またがりがあり、五音の重なりが複層的なリズムを生んでいる。
悔しさのひとつふたつと詰めゆけば蛍袋が満席といふ
/大森益雄「整理袋」(「短歌人」2016年8月号)
日々の悔しさをひょうひょうとした口調でひとつふたつと数えている主体には、確かに満席と言っている蛍袋のようなものがある。とはいえ、何かもっと大きな袋があるような懐の広さを感じる。
きみならもっとうまくやれるさ藻のなかから雛人形を取り出すように
/小田島了「春の形骸」(同人誌「よい島」2017年)
絡みあった藻の中から雛人形を取り出すという地道で繊細なことができるきみ。そんなきみへのエールなのか。マ行とナ行のこもる音の連なりが三句の字余りを一気に読ませる。
ひとり居のひとなき日向もしもしとわれにでんわす何してゐます
/馬場あき子『渾沌の鬱』(砂子屋書房2016年)
ヒの頭韻の五、四、三音から電話のもしもしにつながる上句。事実を文語で、発話を口語でスの脚韻の対句で示す下句。自分に電話するという自己認識の喪失の不安を明るく描いている。
秋空に秋空大の穴をみきすなはちわれは失神をしぬ
/渡辺松男「夕枯野」(角川「短歌」2017年3月号)
空をみる自分、穴をみる自分、失神をしている自分、それを認識している自分がコマ送りにつながる。秋空と秋空大の穴という表裏一体の景に失神したときの世界が反転する感覚の重なりがある。
九十(ここのそぢ)なかばに近く身は老いて なほぞかなしく 人を思へり
/岡野弘彦「恋も桜も おのづからなる」(「歌壇」2017年3月号)
感覚としては、ほんとうかよという気持ちとそうありたいなという気持ちが半々だろうか。一字空けはゆったりと間を取って、なほぞの強調を味わいたい。
〈おかえり〉がすき 待たされて金色のとおい即位に目をつむるのさ
/井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房2016年)
〈おかえり〉は概念として繰り返される挨拶だろうか。一字空け以降は、待つ主体の感覚か。軽い口調から、金色のとおい即位は帰ってきた瞬間の高揚感なのかもしれない。
爪楊枝のはじめの一本抜かんとし集団的な抵抗に会ふ
/花山多佳子『晴れ・風あり』(短歌研究社2016年)
誰でも一度は経験するであろう日常の気づきを、あたかも社会における個人への抵抗とも取れるような書き方で示す。物理的にはもちろん、同調圧力の非常に高い近年の肌感覚にも感じられる。
(各歌の鑑賞はわたしが個人的に書いたものであり、参加者の発言ではないことご留意ください)
対戦カードの詳細はこちらをご覧ください。