太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

歌会についての雑感

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

歌会についての雑感として、最近感じていることなどを書きたいと思います。

歌会とはどんな場なのだろうか。わたしが初めて参加した歌会は「うたの日」というインターネット歌会であった。毎日、題が出され、その題をもとに短歌を作る。作った短歌を誰かが見てくれる。票を入れてくださる。コメントを書いてくださる。そのひとつひとつがうれしくて楽しくて、半年ほど「うたの日」への投稿は続いた。

同じころ、わたしは短歌人という結社に入会した。結社がどういうところなのかは全く分かっておらず、毎月十首から十数首を編集委員の方に送り、ある歌は添削され、またある歌はそのまま結社誌に掲載された。その編集委員の方からは入会して数か月くらい経ってから、歌会に参加しませんか、とのお誘いを受けるようになっていた。歌会がどういうことをするのか全く分かっていなかったわたしは、「うたの日」に参加することで、誰かに歌を読んでもらえるという部分は満たされていたのかもしれないし、当時は不定休の勤務体系でもあり、何となく気おくれもあり、知っている人が誰もいない歌会に行くのは正直こわいと思っていた。

だが、結社の新年歌会を業務上の都合で参加できないと伝えたときは、せっかく結社に入ったのだからなんとか都合をつけて歌会に行くべきではないだろうか、という気分になっていた。そして3月の短歌人東京歌会にはじめて参加した。

はじめて参加した歌会は熱気にあふれていた。活発な話し合いが行われていて、とても楽しそうだとおもった。しかしながら、概ね文語旧仮名で書かれた詠草は「うたの日」で見ていた歌とは、まったく違うフィールドの作品であるように思われた。当時の自分が何を発言したのかはあまりよく覚えていない。また、自分が出した歌は下手であっても理解されないことはないだろうと思っていた。予想を裏切るかのように、自分の歌は自分の意図したようには読まれなかったのに衝撃を受けた。また、短歌人東京歌会では選がないのでどの歌がいい歌でどの歌がそうでないのかは、歌会の最中にはまったく手がかりすらわからなかった。

この時の衝撃は今でも忘れられない。

翻ってみると、インターネットの歌会には、日常的にインターネットを使ってコミュニケーションをしている人が集まっていて、歌の内容もある程度わかるし、いただいたコメントも多くは共感を伝えてくれるものであったと思う。そこは批評というよりは感想が飛び交う場であり、それでも自分の歌に目をとめてくれる人がいることに満足感を持って参加していたのだと思う。

歌人の東京歌会に何度か参加するうちに、結社内の勉強会へのお誘いを受けることになった。おおよそ50人があつまる東京歌会に比べて、数人から十数人で開催される勉強会での歌会はとても密度の濃いものであった。その席では、基本的にすべての歌を全員が評する形式であり、一首の構造を丁寧に解釈し、使われている言葉の斡旋や助詞・助動詞の用法に至るまで細かく読むという体験をした。自分の歌をまるで別の誰かが作っているように語るのも最初の経験だった。

このときはじめて、解釈と鑑賞の違い、感想と批評の違いを実感したのだと思う。

さまざまな形式の歌会があり、その歌会は進め方も違えば司会の裁量も違い、ひとくちに「歌会とはこういうものだ」という言葉でまとめることはできない。あるスタイルの歌会に続けて参加していると、その歌会、その進め方こそがすべての歌会のルールであるかのように感じてしまうのはとてもよく分かる。また、自分の短歌観を身につけていればいるほど、同席する参加者にも同じような熱量を期待してしまうのもまた素直な感慨なのだと思う。

ただ、一歩立ち止まってみてほしい。

もし仮にあなたが短歌をはじめて二年目、文芸部や短歌会であれば二年生、結社に所属しているならば、例月の歌会に同席している人には名前や作風を覚えてもらいはじめていた頃を思い出してほしい。そんなときに「短歌っておもしろいんですか、歌会ってどんなところなんですか」という質問を、短歌をはじめたばかりの人や歌会にあまり出たことがない人から受けたら、まず自分が参加している歌会に見学に来てもらいたいと思うのではないだろうか。

そして、その時に誘って参加してくれた人が、ある歌について精一杯の勇気を持って感想を述べたときに、あなたの上級生や先輩、ベテランの方が、「歌会は批評をするところであって感想を言いあう場所じゃない」とか「選は <優れた歌> に入れるのだから、好き嫌いで選ぶなんて誠実じゃない」などと言ったとしたらどのように感じるだろうか。同じように、自分がはじめて参加した歌会でそのように言われたらどう感じるのだろうか。

批評の言葉を覚えたてで使ってみたい、という趣旨の発言であれば、そういう時期はあるよね、とは思う。でも、何年も短歌を続けて自分の言葉で批評ができる人が、そうでない人を公の場で非難するのは、ボクシングを何年もやっている人がいきなり殴りつけてきて、「あなたもボクシングをはじめているならこんなパンチはかわせるでしょう、何なら殴り返してきてくださいよ」と言っているように感じるのである。

わたしが二年生の立場で上級生や先輩に、二年目の立場でベテランの方に期待したいのは、「感想を言ってくれてありがとう、わたしはこんな歌だとよみました。この歌はこういうところが作者の工夫だね。でもここはこの言葉だと全体に対してちょっとずれるかな」などといった、解釈と鑑賞の違い、感想と批評の違いをはじめての人でも分かるように具体的に説明してくれるような発言ではないだろうか。

批評はむずかしいし、誰もがどんな歌でも的確に批評ができるとは思わない。よく知った言葉があれば、解釈を飛ばして自分の世界に入ってしまうこともあるだろう。また、どんな歌が並んでいても、その場で本当に優れた歌を選ぶことも同じように極めてむずかしいのではないか。ある人の感想が別の人の批評を生むきっかけになることもあるし、「わからない」という発言がその歌の論点の糸口になることもある。言葉にできない「好き」のエネルギーを共有することにも意味はあると信じたい。

自分のフィールドで歌会をやっているのであれば、会の暗黙知を共有することは十分に可能であるし、同席した人の歌歴や短歌観を知りつつ深い議論をすることができると思う。ただ、その方法論がすべての場所で通じるかどうかは慎重に見定めてほしい。言葉は鋭利な武器になりうることは、短歌に限らず文芸を何年もやっている人には言うまでもないことだと思うけれども。

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