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太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

『洞田』批評会に参加しました。(3)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

前回からすこし時間があいてしまいましたが引き続き、『洞田』を読んでいきます。

Ⅰ部・Ⅱ部はこちらから

『洞田』批評会に参加しました。(1) - 太田青磁の日記

『洞田』批評会に参加しました。(2) - 太田青磁の日記

 

■Ⅲ部(主に文語旧仮名)

阿波野さん:文体的に短歌に馴染んだ「洞田」が東京・大阪の往還の中で富士(=駿河/戸綿)のことを思う。
大辻さん:文体・修辞の「私」。人の体温を感じる。
花山さん:意味性が後退する。動詞によってバックグラウンドの「私性」を立たせる。 短歌が共有する私。

【富士】

冒頭の一首、車窓に富士を見る。Ⅱ部の【静岡】を受けるような導入。

「大阪」郷愁を誘う歌が並ぶ。リフレインやどこか欠落感のある文体。

「東京」雨や傘をモチーフとした歌が並ぶ。父のイメージ。

「大阪」駅や電車を動きとして描いている。母のイメージ。

「東京」ひかりをイメージして少し明るくなる。富士へのアンビバレントな思い。

「大阪」日の入る、火、待つ、耐える。夏の思いへの追想。

「静岡」父母ではなくきみとわれの世界。「洞田」はひとりではない。

Ⅲ部は文語旧仮名で、一首一首が際立つというよりは、大阪に母を、東京に父を、静岡に戸綿を思い起こさせるようにまとめられている。詞書は地名のみであり、歌を歌として自然に連が作られている。

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ここまで、Ⅰ部からⅢ部の構成を、主にタイトルと詞書から受ける感想を述べた。批評会当日、また事後のタイムラインなどで、いくつかの論点があったと思うので簡単に振り返る。

①「洞田」はひとりの人格なのか。

②「洞田」と「戸綿」の関係性はどうなのか。

③主に仮名遣いの違いで章を構成しているが、どのような効果があるのか。

何かの論拠をみつけだして、こうだと言い切るのはむずかしいが、わたしなりに読んだ感想を記しておく。


①「洞田」はひとりの人格なのか。

100名以上の不特定多数の投稿歌の主体をひとりに決めてしまうというのは、さすがに無理があると思う。一人称の表現(わたし、母、わたくし、わたしたち……)は無数にあり、三人称的な歌もいくつも交じる。「洞田」が見聞きしたものとして、引きの視点を意識した方が読みやすいと感じた。結局、「洞田明子」歌集という装丁でなければ、この歌集をひとりの作品と捉えることはどうしてもむずかしい。

 


②「洞田」と「戸綿」の関係性はどうなのか。

土佐日記「をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみんとてするなり」
戸綿日記「洞田(をんな)もすなる短歌といふものを、戸綿(をとこ)もしてみむとするなり」 

男性が女性の文体を借りた『土佐日記』とはジェンダーの逆転があり、「洞田」が「戸綿の目線」になりかわって作品を作っていると読むことができるのだと思う。(石川美南さんも同様の見解を持たれていたようである)

「戸綿日記」の冒頭、「続戸綿日記」の終わりに旧仮名の歌が出てくるのは、この間がフィクション(洞田の脳内世界)とも取れるのではないか。

戸綿日記の「冬」が一首だけ、というのは冒頭の歌と呼応しているのではないだろうか。

視点の変化による構成をイメージしてみた。

Ⅰ部【ほんとうは】
洞田が、自身の過去を回想している。

【戸綿日記】
洞田が、「戸綿の視点で」ふたりの出会いと別れの予感を想像している。

【黄色い線の内側】
洞田が、「戸綿の目に映ったであろう洞田」を回想している。

【続戸綿日記】
洞田が、「戸綿の視点で」洞田と別れたのちの戸綿の姿を想像している。

Ⅱ部
洞田が、いくつかの自分のルーツに関わることを思い起こしている。

Ⅲ部
洞田が、文体を変えてゆったりと父母や昔の恋人のことを懐かしんでいる。

強引に設定を置けば、「洞田」と「戸綿」は入れ子構造になっていると読むことができる。そうするとあまり雄々しくない言葉遣いや、紀行詠が緻密でないことも説明がつかなくはない。伏線の回収のタイミングも、プロット上に置いたのであれば、成否はともかくとしてチャレンジと取れるのではないだろうか。

もちろん、太朗が「洞田」と「戸綿」を並列的に登場させていると読むことも可能なのだが、あくまでも「洞田明子」歌集であり、「戸綿」は「洞田」との関係性によって生み出された「なりかわりの人物」として捉えるのがよいのではないだろうか。詞書やストーリー展開からも、こちらの説を持ちたい。

 

③主に仮名遣いの違いで章を構成しているが、どのような効果があるのか。

明確に旧仮名遣いの歌とそうでない歌(新仮名および表記の差がない歌)を分けるのは、それほどむずかしくはないだろう。だが、明確に新仮名遣いの歌とそうでない歌を分けるのは相当大変だと思う。よって、明確に旧仮名の歌を用いてⅢ部を構成していつつ、キーになる歌を抜粋してⅠ部、Ⅱ部に置いたのではないだろうか。

旧仮名を使う(それを正しく使いこなす)ということは、短歌の基本的なフォーマットに乗って作品を作るというオーセンティックな方法論を意識的に選んでいるように思う。この歌集でも実験的な歌は比較的口語新仮名の歌に表れていた。

短歌のモードに従って文語や旧仮名遣いを調べながらひとつひとつの言葉を選んで作られた歌は、発想をそのまま歌にできる口語の新仮名遣いに比べると、まとまって読みやすいという意見は確かにうなずけるものであった。完成度という観点からも、Ⅲ部の粒が揃っているのは、旧仮名遣いを使いこなせる作者の作品が並んでいるからともいえるのではないか。文語でゆったりと歌うことによって、単語そのものの意味からの解放があるということは、「太朗」がⅢ部に意味的な詞書を付与していないことも、傍証となるのではないだろうか。

これは、あくまでも『洞田』の作品中の比較であって、一般的な仮名遣いと文体の違いについてはより丁寧なアプローチが必要であろう。

 

まとまりのない感想となってしまいましたが、ここまでお読みくださった方に感謝です。改めてタイトルや詞書をひとつずつ見返すことができたのは、批評会のパネリストの皆さまと「太朗」のお二方のおかげだと思っています。

 どうもありがとうございました。

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