「短歌のわたし、小説とかの私」に参加しました
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
1月15日に紀伊國屋書店新宿本店で開催されたトークイベント斉藤斎藤×佐々木敦「短歌のわたし、小説とかの私」に参加しました。
佐々木敦さんはこのイベントがあるまで存じ上げなかったのですが、文学、音楽、思想と多岐にわたる批評をなさっている方と伺い、「短歌のわたし」にどういうアプローチでのぞむのか非常に楽しみでした。
短歌のイベントにはめずらしく、一首も歌が単独で批評されることなく進行したのですが、「短歌のわたくし」とは何かという問いかけに「作者と主体」「作中での時間」「文学における人称」を中心にダイナミックな対話が繰り広げられました。
最初のうちはメモを取ろうかなと思っていたのですが、気がつくとお二人の会話に夢中になってしまいました。交わされた内容を思いながら二冊の歌集を読みかえした感想を書いてみます。(引用はすべて後日読みかえして付与したものです)
【短歌とは】
俳句は文ではなく、短歌は文である。31文字は長い。
文である以上、主語と述語がある。主語は記載がなければ「わたし」である。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとゞかざりけり
/正岡子規
テキストだけではバランスを欠いている → 外側にあるものとワンセットで読まざるをえない
このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい
『渡辺のわたし』『人の道、死ぬと町』におけるおびただしい詞書
短歌の需要には作者の死やマイナスの出来事を過剰に要求される
あいしてる閑話休題あいしてる閑話休題やきばのけむり
『渡辺のわたし』「きのうの夜はとてもいい顔をしてました きのうの顔に会えてよかった」
『人の道、死ぬと町』
【短歌における私とは】
写生とは、主体自身の視点なのか、主体を含む客観的な俯瞰の視座なのか
俳句や詩と比較するよりも「私小説」がぎりぎりまで削ぎ落とされたものと読むことができる
死ぬときはみんなひとりとみんな言う私は電車で渋谷に行きます
『渡辺のわたし』
みんな原発やめる気ないすよねと言えばみんな頷く短歌の集まり
『人の道、死ぬと町』
(わたし以外)誰もいませんでした → 日本語の認識は自己を省略した視点にあり、西洋の全体を俯瞰する視座と異なることがある。
誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる
『渡辺のわたし』
この世界は素晴らしいと言いふらしたいそんな私も燃されて光
『人の道、死ぬと町』
【時間の感覚と時制について】
作中の時間軸は文の先頭から流れるものであるが、そうでない書き方がある
『渡辺のわたし』
「だってわかってたらもっといろいろ」「だってわかってなかったんだから」
『人の道、死ぬと町』
口語での「た」形と「る」形の混在 → 時制の問題はついてまわる
お名前なんとおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
『渡辺のわたし』いつもより生きてしまった たくさんの人が生きて死にかたずけられた町で
『人の道、死ぬと町』
【「わたし」「わたしたち」「あなた」】
複数の「わたし」と単数の「わたしたち」が重なりあう
そうさぼくらは世界に一つだけの花ぼくはぼくらを束ねるリボン
『渡辺のわたし』わたしは何も失っていないわたしたちの次の世代が失われただけだ
『人の道、死ぬと町』
「あなた」とは作者が想定した読者なのか
あなたあれ、あなたをつつむ光あれ。万有引力あれ、わたしあれ。
『渡辺のわたし』わたしはあなたをあいしとるのにあなたはわたしたちをあいしてる
『人の道、死ぬと町』
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