太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

伊舎堂仁さんの『トントングラム』批評会に参加しました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

5月14日(日)に伊舎堂仁さんの『トントングラム』(書肆侃侃房 2014年)の批評会に参加しました。伊舎堂さんとは私が短歌をはじめたころにお会いしたことがあり、批評会を楽しみにしていました。

パネルディスカッションは、フラワーしげるさん、宇都宮敦さん、黒瀬珂瀾さん、田口綾子さんの4名と司会の田中槐さんです。

フラワーしげるさんは、短歌史におけるニューウェーブ以降の歌人を概略し、伊舎堂仁の立ち位置を〈不機嫌な子供たち〉というフレーズで定め、その作風を〈ねじったひねったまげたメモ〉と表現する。あくまでも穂村弘以降の現代短歌からの影響を受け、他ジャンルからの影響は少ない。奇妙な明るさの生む断片は世界とのずれであり、主張や表現にもなっていないと述べていました。

歩きだと8年かかるらしいのでそのとき出れば今ごろついてた(P.12)

いしゃどうに会わせたい人がいないんだ ぜひ会わないでみてくれないか(P.22)

黒板に夏と書いたのは誰ですか名乗り出るまではじめませんよ(P.48)


宇都宮敦さんは、穂村弘『短歌という爆弾』を補助線として、大喜利短歌と呼ばれる作品に対する読みを解説する。共感と驚異は非対称であり驚異のないところに共感はない。短歌とお笑いの構造に認識の発見がある。伊舎堂のずれは感性でずらしているようで、ずれたものをさらにずらしていくことで、みかけのズレは大きくさせていると述べていました。

もうどこも動いてないねどうします うちに避妊具いるけど見にくる(P.25)

男の子ならば直哉、女の子ならば直美にしよう(改作1:普通の女性)
 ↓
男の子ならば直哉、女の子ならば心愛にしよう(改作2:読み方がわかりにくいココア)
 ↓
男の子ならば直哉、女の子ならば消火器にしよう(改作3:関係のない名詞)
 ↓
男の子ならば直哉、女の子ならば㌧㌧㌘にしよう(P.38:ずれすぎて驚異がない)


黒瀬珂瀾さんは、狂気と理性の両輪がこの歌集の両輪であり、狂気のほうに読ませる歌が多い。エンターテインメントとしては演出の意図が見えすぎてしまっていると評する。掲題歌は「トントングラム」ではなく、むしろ「直哉(なおちか)」という武家的な男性名に注目すべき。ナイーブなミソジニーにみられる現状肯定の姿勢や、読者との共犯関係という作為はメディアからの影響を前提として、歌集全体にノイズが多すぎて助走的な作品ではないかと述べていました。

食べものをあさってように見えたならもうおわるしかないんじゃないですか(P.89)

男の子ならば直哉、女の子ならば㌧㌧㌘にしよう(P.38:)

この車くらいにでかい蓋 つまり? 車くらいのマンホールのあ(P.40)


田口綾子さんは、歌集の構成として一連がどこまでも続く感じに息をつけないことや、韻律に頼らずに定型を守っていることの読みずらさがあると述べる。マイルドヤンキーの文化圏を背景にしているようで、グループでのコミュニケーションの文脈がある、男女の捉え方もどこか表面的な感じを受けるとまとめていました。

クーポンを出せばレジの子が くーぽん 笑顔でいってくれるクーポン(P.36)

非常口となりますので物等を置かないでくださいが揺れてる(P.18)

友だちでぱんぱんのバンで飲酒運転車輌専用道いけばくるぱんぱんのバン(P.96)


その後、ディスカッションと会場発言につながっていきましたが、お笑いなのか抒情で読ませるのか、著者の繊細さは伝わってくる、野性味を期待したい、どのようにして読むのだろうかがわからない、と様々な角度からの意見がでて、最後は「群盲象を撫でる」だったと司会の田中槐さんがまとめていました。

個人的な印象としては、伊舎堂さんの位置づけ、作風・技法、個別の歌の鑑賞へと進んでいったものの、そこから歌集全体のイメージを共有するには至らずといった印象でした。「大喜利短歌」というキーワードがひとり歩きしているような感じを受けたこと、短歌研究2016年4月号の作品季評での穂村さんや馬場さんの評をもう一度読み返してみたいと感じました。

伊舎堂さんが所属する「なんたる星」の方はどなたもいらしておらず、発起人や参加者に「未来」の方が多くて、「未来」の集まりに参加しているような気分になりました。結社とはなんだろうかとも感じた一日でした。

短歌の世界がどのように外の世界と向き合っていくのか。新たな取り組みが進んでいくことが楽しみです。

トントングラム (新鋭短歌シリーズ18)

トントングラム (新鋭短歌シリーズ18)