瀬戸際レモン(蒼井杏)
少しずつブックレビューのような記事もはじめていきたいと思っています。
今回は蒼井杏さんの『瀬戸際レモン』を紹介します。
蒼井さんは第6回中城ふみ子賞受賞、第57回短歌研究新人賞佳作、と輝かしい経歴を持ち、満を持して第一歌集を上梓されました。未来彗星集という綺羅星が集まる欄にて、独特の対象との距離感や繊細な観察眼を軽やかなリズムに乗せて歌っている印象を受けます。
まずは表題ともいえる「檸檬」との関係性から。
リプトンをカップにしずめてゆっくりと振り子のように記憶をゆらす
レモンパイなど食べながら わかってる もう檸檬には戻れないこと
てのひらの心臓としてくるむレモンふりさけ見てもため池がない
ここがたぶん瀬戸際でしたゆっくりとレモンの回転している紅茶
いちまいのきおくのたどりつくとこ瀬戸際レモン明るんでゆく
レモンの出てくる歌には、レモンティをゆったりと淹れるイメージと、追い詰められた瀬戸際でも自分を失わず、酸いも甘いも受け入れるのだという、矜持のようなものが合わせて伝わってきます。
なんといってもこの歌集は、詩歌のもつリズムを感じる歌が随所にあって、目で読んでも口ずさんでも心地よさが感じられるところがとても好きだなあと感じます。
ひとりでに落ちてくる水 れん びん れん びん たぶんひとりでほろんでいくの
18-10 STAINLESS STEEL JAPANの字を見ているわたしをみつめているスプーン
あたしもうだめかも なんて かめパンの首・尾・手・足 順番にもぐ
とらんぽりん ぽりんとこおりをかむように月からふってくるのだこどくは
あぶらぜみかたぶらぜみととなえつつ駅で時計をさがしています
一首目の「れん びん れん びん」はここだけ楽譜の繰り返し記号がついているようなゆったりとした時間を、四首目は、とらんぽりんに飛び込んだ主体が半分だけ跳ね返ってくる様子が、こおりをかむ音のイメージに回収されていてとても好きな歌です。下句の「ふってくるのだこどくは」という箴言のような物言いも好きです。
そして、主に冒頭の一連「空壜流し」から、繊細な自己を、硬質なイメージによる外界と距離を感じさせる壜もモチーフとして大きな意味があるようです。
音のない夢でした透明な唇つめて空壜ながす
君を見た。すべての音を飲み干して空壜になる駅コンコース。
空壜が笛になるまでくちびるをすぼめるこれはさみしいときのド
百色の色鉛筆を窓際の空壜に活ける ここは春の森
地球壜の画像をさがすわたくしはむかしあるところかたまりでした
三首目の壜をフルートのように吹く主体のひとり遊びのような感覚と出てきた音を音階で聴き分けて、さびしいときのドと感情を音程に語らせるのが巧みです。五首目は地球壜というボトルシップのようなものでしょうか。なにか自分と地球のサイズ感が入れかわるような不思議な感覚があります。
そして、「多肉少女と雨」の連作で執拗に繰り返される結句の「読点+雨」
ピーターの絵本のように函入りの記憶がありますひもとけば、雨
はなびらをうまく散らせぬ木があってもう少しだけ見ています、雨
8Fのシネマフロアの自動ドア開けば空中庭園は、雨
七色のボールペンには七本のばねがあるのでしょうね、雨
この人はもういないのだと思いつつあとがき読めば縦書きは、雨。
一首目、雨の日に幼いころの記憶を追想するかのひととき。函入りの絵本は宝物のようだったのでしょう。四首目、リフレインを使って細かいところ細かく歌っていながら、結句の字足らずがリズムを巻き取るようで好きです。五首目、下の句のあとがき、縦書きと迫りながら、最後に置いた句点が歌そのもの、そして一連を物語るかのようです。
このほかにも、体感覚に訴える歌、とくに足先や鼻といった、詩情から一歩離れた部位に対する執着のような感覚もひかります。
靴下の穴からのぞく親指のようにわたしをはみだしてゆく
おおいなるわすれたいことかさぶたをひざ折り曲げてはがしています
だってもう消えたい湯ぶねの靴下のゴムのあとをたどって
ものすごく鼻がかゆくて部屋中の時計を三分進めています
に、してもひざにだれかの耳をのせ穴をのぞいてみたい夜長だ
そして、表記を大胆に使った実験的な作品
本だなの/ななめの本を/いつの日か/ここに ///おさまる本のあること
コンタクトレンズ)をこする)あのひとが)きらい)だとかもう)言えない)のです。
スラッシュの歌は、スペースをもっと韻律に乗せて、「おさまる」を言わずに語らせるやり方もあったのかもしれません。少し下句が流れてしまった印象です。コンタクトの歌はやはり縦書きで読んでほしいのですが、ブツ切れの感じが、主体を守るバリアのような感じがあっていいなと思いました。
主体は自分の生き方(一人の世界)を割と肯定的に捉えつつも、世界との距離感をうまくつかんでいて、その観察眼が詩的跳躍を生んでいるのだなと気づかされます。
こんなにもわたしなんにもできなくて饂飩に一味をふりかけている
でもきっとなにもしないのがいいのでしょう くつひもほどくどんどんほどく
おめでとうございましたの帰り道いちばん上までファスナーあげて
わたくしをほうっておいてくれましたあしたの日記のように雨だれ
一首目、髙瀬一志さんの〈うどんやの饂飩の文字が混沌になるまでを酔う〉という歌をイメージしました。うどんのもつやわらかさにはどこか許されてしまう感じがあります。四首目も雨の歌なのですが、雨が降っていることによって、ひとりの時間がかえっていとおしさを感じるようでもあり、「あした」「雨だれ」と続くことで、どこか救われるような印象があります。
駆け足気味でしたが、内面と外界の境界にあるはずの何かを感じさせてくれる一冊です。