「空の青海のあを」は「海の青そらのあを」だった
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
/『海の声』『別離』若山牧水
空の青さにも海の青さにも染まらずに漂っている白い鳥は哀しくはないのだろうか(とわたしには思えてならない)
このような有名な歌を改めて読み直すまでもないのであるが、白鳥は単数か複数か、白鳥が漂っているのはどこだろうか、というアンケートがタイムラインを流れてきた。
まずは、主体と白鳥の関係性を考える。「哀しからずや」と強めて言うからには、主体の感情を投影している白鳥は一羽であると取りたい。
次に場所を考える。白鳥の動きをあらわしている「ただよう」を辞書で調べると、空中、水中どちらでも使われることがわかる。
【漂う】
空中や水中に浮いて、風や波などに、運ばれるままに動く。「舟は波間を—った」「雲が—う」
「運ばれるままに」というからには、白鳥が自身の力では飛んだり泳いだりしていない印象を受ける。
また、空と海の関係性については、順序や表記の差はあるものの全くの対句になっているため、白鳥のいる場所は空と海との境界の海面にある、すなわち浮いていると取りたい。
というようなことを思っていたところ、牧水の名歌は初出から歌集に収録される際に改稿されていることを知った。
白鳥(はくてふ)は哀しからずや海の青そらのあをにも染まずただよふ
/『新生』明治四十年十二月
海の青さにも空の青さにも染まらずに漂っているハクチョウは哀しくはないのだろうか(とわたしには思えてならない)
初出では鳥はハクチョウと限定されており、そらが開かれているとともに、「海」と「そら」の順序が逆であったのだ。
白鳥は哀しからずや海の青
上の句だけでも真っ青な海上にいる白鳥の白さがコントラストを持って伝わってくる。
そらのあをにも染まずただよふ
改稿後の歌の印象がありきとはいえ、比較すると下の句は少しぼやけてしまうのは、かな書きの多さやそらと染まずの<so-a音>のつながりもあるのかもしれない。
あらためて、改稿後の歌を読む。
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
まず「空」が提示され、続いて「海」が出てくることによって、読者の視点は上から下に向かうことになる。この視線の動きも哀しさをいっそう強めている。
「青」よりも「あを」のほうが暗く深い印象があり、この表記の変更は、空の明るさと海と暗さの対比をも強めることになっているのだとも感じられる。
多くの方が、鳥は飛んでいると鑑賞されていて、確かにそうとも読めるよなと思っていたのだが、
白鳥は哀しからずや空の青
上の句の段階で、景は読者の中で明確に描かれていて
海のあをにも染まずただよふ
下の句を合わせて読むことで、鳥は海面すれすれを飛んでいるという素敵な解釈につながるのだと考えると、短歌という一方向にしか言葉をつなげることができない詩型にとって、語順による動線のコントロールは極めて大事だなとおもう。