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太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

「短歌」はどういう「詩」か (1) スタイルの選択ー森岡貞香を読みながら に参加しました

イベント

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

8/13(土)に短歌のシンポジウムに行ってきました。

テーマは【「短歌」とはどういう「詩」か】という大きな内容です。そして第一回のこの日は「森岡貞香」の短歌をパネリストの方々と読み解いてゆきました。

今回のパネリストは、花山多佳子さん、斉藤斎藤さん、永井祐さんと豪華なセレクトです。花山さんの『森岡貞香の秀歌』をもとにお話を伺い、斉藤さん、永井さんがそれぞれの視点で歌の鑑賞を楽しむ場となりました。

 

 

椅子に居てまどろめるまを何も見ず覺めてののちに厨に出でぬ

/『黛樹』森岡貞香

椅子という空間から「まどろめるま」「覺めてののち」とゆったりとした時間の流れを感じさせる。「夢を見ず」ではなく「何も見ず」「厨に行きぬ」ではなく「厨に出でぬ」という視点がユニークである。短歌を外から見るのではなく、内側から出てくるものをそのまま表現するところが特徴となっている。(花山多佳子)

 

今夜とて神田川渡りて橋の下は流れてをると氣付きて過ぎぬ

/『百乳文』森岡貞香

「今夜とて」の「とて」が一首全体に「今夜とて神田川渡りて」「今夜とて流れてをると氣付きて」「今夜とて過ぎぬ」とそれぞれに掛かる構造となっている。「渡りて」「流れて」と切れ目なくつながっているのは、同時に認識したことを同時には述べられない文章ならではの表現上の制約でもある。(斉藤斎藤

 

うしろより母を締めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪亂るる

/『白蛾』森岡貞香

5-7-7-7-8。二句の「締めつつ」で押し出されたリズムが三句の字余りを生み、四句の「執拗にして」と引き締め直したところで結句の「亂るる」が必然的に余る。意味と文体が強くシンクロしている。(永井祐) 

 

会場からの発言もあり、いちばん議論が盛り上がった歌はこの歌でした。

 

流彈のごとくしわれが生きゆくに撃ちあたる人閒を考へてゐる

/『白蛾』森岡貞香

 会場にいらしていた佐伯裕子さんは、時代背景を踏まえて物語を汲んで鑑賞されているとのことで、この歌の「撃ちあたる人閒」を、われが誰に撃ちあたるかを考えているところに深く心を動かされた、という趣旨の発言をされた。過去にこの歌の解釈で花山さんとは読みが分かれたとおっしゃっていました。

一方、花山さんの読みはもう少し淡い。

 

ねらいもなく、どこへ飛ぶかわからないながれだま。そのように自分が生きてゆく、という思いは悲哀にみちているが、そんな流弾にたまたま撃ちあたる人間もいるのだ、という悲哀はより深い。『森岡貞香の秀歌』

会場では、永井が佐伯の読みを、斉藤斎藤が花山の読みに同意し、いったんは意見が分かれた状態でおさまるかに見えて、斉藤斎藤から、助詞の意味を問う発言が出た。この内容は、追ってツイッターでも議論が続いたので、のちに補足する。

 

そのほか、短歌は私性ではなく一人称性で語るべき、「抒情」と「叙事」に分けるのは多ジャンルの影響を受けてしまうから、「一人称性叙事詩」とでもいえばいいのだ。短歌を規定しているのは、文章として成立しうる最短の詩形、非常時には一人称が複数になりがち、と一つ一つで軽くシンポジウムが成立してしまうくらいのトークセッションが行われました。いよいよ終わりか、とだれもが思った瞬間に、会場後方から矢のような質問がありました。その鋭さに驚き、質問の内容はおろか何が議論されたのかはまったくついていけなかったのだが、リアルなイベントであることを突きつけられた感じでした。

 

改めて手に取りましたが、森岡貞香ものすごく深いですね、「秀歌」だけではおさまらず底本にまで手をのばしたくなる衝動と戦っています。

 

以下は、ちょっと考えてみたことです。

 

花山さん・斉藤さん:「流弾のごとくしわれが生きゆくに撃ちあたる人間」を考へてゐる
佐伯さん・永井さん:流弾のごとくしわれが生きゆくに「撃ちあたる人間」を考へてゐる という感じで割れていたのかなあ。
 (山本まともさん)

 

流弾のごとくしわれが生きゆくに撃ちあたる人間を考へてゐる/森岡貞香 この下句を私は「撃ちあたってしまう人間のことを考えながら、きちんと当たろうと考えている」みたいに読みます。下句を「誰に撃ちあたってやろうか」と読むのは、やや無理があると思う。理由の一つが、「われが」の「が」。流弾=目標をそれた弾。当たる相手を選ぶのは定義に反する。で、「流れ弾のようにわたし【が/は】生きてゆくけれど、せめてできるだけ嫌な奴にあたりたい」と書く場合、通常は【は】を選ぶのではないかと。でも「われが」なので、作者は流れ弾のような生を、ちゃんと引き受けている感じがします。(斉藤斎藤さん)

 

私はこんな風に捉えていました。 

流彈のごとくしわれが生きゆくに撃ちあたる人閒を考へてゐる

(流彈のごとくし)われが - 生きゆくに
(流彈のごとくし)われが -(撃ちあたる人閒を)考へてゐる

生きゆく」

〇「われ」が「考へてゐる」

流彈のごとくしわれは生きゆくに撃ちあたる人閒を考へてゐる

(筆者改「が」→「は」)

(主体が)-((流弾のごとくし)われは -(生きゆくに)撃ちあたる人閒 )を考へてゐる

〇「われ」は「撃ちあたる人閒」

〇「考えてゐる」のは主体

うまく、助詞の使い分けができているのが分かりませんが、「が」と「は」の違いは追いかけていこうと思います。

シンポジウムや批評会に行くたびに議論についていけなかったもやもやが残るのですが、じっくりと『森岡貞香の秀歌』を読んで考えたいなと思いました。

主催の西村美佐子さん、パネリストの方々、会場でいろいろなお話をさせてくださった方々、本当にありがとうございました

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森岡貞香の秀歌

森岡貞香の秀歌