2018年7月短歌人東京歌会とビブリオバトルに参加しました。
池袋のいつもの会場が工事中につき、芸術劇場のリハ室を借りて歌会です。
こういう部屋は、オーケストラの練習で使っていたことが多く、セッティングにも何だか張り切ってしまうのですが、研究会のプレゼンターの役割もあって体力温存で望みます。
この日も50首を越える詠草が集まり、一首一首の時間は短いものの、密度の濃い批評が飛び交う感じでした。発言は結構手をあげたのですが、読みきれない歌もあって、いろいろな人の話を聞くのが大事だなと思っています。
歌会のあとの研究会では、「短歌ビブリオバトル」というおススメ本を紹介するプレゼンバトルに参加しました。川田さん、藤原さん、長谷川さん、浪江さんと5人で5分ずつおススメ本について紹介したのち、会場からの質問に答え、全員が紹介し終わってから、投票で結果が決まります。
一冊目は稀風社さんの『誰にもわからない短歌入門』(2015年)で臨みました。一番手だったので緊張しましたが、何とか時間内に話をすることができました。
二冊目はユキノ進さんの『冒険者たち』(2018年書肆侃侃房)です。版元や新鋭短歌シリーズなどのレーベルを合わせて紹介したので、歌集の紹介が十分に話しつくせなかった感が残りました。
結果は2冊とも藤原さんが勝ったのですが、今回は勝つことよりも良い本を紹介することができたので個人的には満足です。
歌会、研究会に続き懇親会にも参加しました。見学にきてくださった方や、プレゼンバトルに参加した方と話ができてよい時間でした。
全国夏季集会のため8月は東京歌会は休会となりますが、勉強会もありますので、見学希望の方はどうぞお声掛けください。
ご参加くださった皆さま、どうもありがとうございました。
短歌人2018年7月号
今月の月詠です。
表紙のみ印刷に出す 文章は前々日まで書く前提で
紙を折りホチキスで綴じ紙を折る 繰り返すほどに精度はあがる
文フリに行きたいという子を連れて遠足の日のようにバスに乗る
カレーしか食べ物はなくふたり分のカレーを買って席につきたり
そろそろ飽きたという子を送る帰り道 間違えて大井競馬場に立つ
採算は取れたかと問う子がいれば安心して趣味に打ちこめるなり
5月号の作品に月評をいただきました。菊池孝彦さん、ありがとうございました。
二月中に出すといった雛人形を三月一日のロスタイムに出す
「ロスタイム」という喩えが作者の発見。雛人形を二月中に出すという約束が日常の雑事に紛れて果たせず、三月一日に出した。まだロスタイムだからセーフにしてよ、ということか。作者も家族も微苦笑の顛末。
今月号では、髙瀬賞と評論・エッセイ賞の選考結果が発表されました。髙瀬賞は鈴掛真さんの「冷たい手」と鑓水青子さんの「真冬ロシア」が受賞となりました。おめでとうございます。評論・エッセイ賞は今回は受賞作なしでした。いただいた講評を読みながら足りない部分を感じております。
感想などお聞かせいただけるとうれしいです。
『冒険者たち』刊行記念トークイベントに参加しました
こんにちは、太田青磁です。
5月19日(土)に赤坂の双子のライオン堂で開催された「ユキノ進『冒険者たち』刊行記念トークイベント」に参加しました。テーブルを挟んでパネリストと10名ほどの参加者が打ち合わせのように輪になって並ぶアットホームな感じの会場でした。
はじめにユキノ進さんの短歌との出会いや読者としてどんな歌人の作品を読んできたか、どんなきっかけで自分も作者となっていったのか、短歌とどのように関わって来たのかを、寺井龍哉さんがインタビューをする形式で対談が進んでいきました。読者としての時間が長かったということと、ほかのジャンルの表現者と出会うなかで自分が表現をするなら短歌だ、そして自分の表現の場は自分の行動力で作ってきたということが印象的でした。
そしてメインテーマは「短歌が切り取る今の社会」というタイトルで、以下の項目のグラフと短歌が並ぶレジュメが渡されました。まるで社会学のゼミに参加しているような気分でした。
①非正規雇用者の割合の推移
②賃金指数の推移(名目・実質)
③人件費と企業の取り分の推移
④時間外労働指数の推移
⑤精神疾患に係る労災の支給件数の推移
⑥人事評価におけるリーダー項目
⑦大学・大学院卒の正規職員率(男性・女性)
⑧防人歌
⑨米国の所得格差の推移(トップ10分位の占める比率)
どのグラフにも短歌にも、社会に対する問題意識があふれていて、それを冷静に見つめながら情熱のある作品につなげていくというスタイルは目を見開かされる思いでした。
こういうグラフをみるたびにやるせなさを感じてしまい冷静になれなかったり、自分自身の個人的な体験を思い返して苦しくなってしまうテーマもあったのですが、防人歌のように歌にすることで複雑な感情を慰めることができるのだと気がつき、参加してよかったなと感じました。
わたしは社会詠を作ろうとすると、つい言いたいことを言いすぎてしまうことが多いのですが、対談の最後に寺井さんが「言いたいことを言わずに読者に委ねるのがよい社会詠なのではないか」と述べていて、もっと読者を信頼して歌に向きあっていきたいなと感じました。
一首で読ませる短歌ももちろん価値があるのだけれど、連作という形式を取ることで自分の表現を確立してきたというユキノさんのスタイルはとても格好良くて、わたしも地力をつけて長い連作にチャレンジしてみようかなという気持ちにもなりました。
ユキノ進さん、寺井龍哉さん、どうもありがとうございました。
第3回千歳烏山歌会に参加しました。
こんにちは、太田青磁です。
5月12日(土)に千歳烏山歌会に参加しました。この歌会は未来の嶋凜太郎さんが中心となっている歌会で、少人数で連作形式の作品を読みあう批評を中心とした集まりです。
未来の各欄の方々、塔の方、短歌人のわたしと結社の枠を越えたメンバーは、各々まったく違うスタイルで短歌を作っています。お互いに何を基準に短歌を作っているのかを共有しつつ、その個性をどのように評価するのかは毎回とても刺激的で、かつ自分のスタイルを見つめる機会であったりもします。おやつに柏餅を食べつつ、近況を話し合ったりするのもたのしいひと時でした。
今回は、ゴールデンウィークに参加したイベントについて連作を作ったのですが、いろいろと手を出し過ぎていて、一首一首のつくりにかなりの粗さが残っていました。たくさんの評を聞き、未熟さを感じていました。
平板な日常をどう切り取るのかを歌うのであれば、その角度にこそ表現を見出さなければならないし、この角度から歌っているということを正確に読者に届かせなければ価値はないのだなあ、などということを考えております。
景の切り取り方、立ち上げ方、リリースのポイントに、もっともっと端的にリズミカルに手ごたえのある感情をのせていきたいです。そしてクリアで的確な評を述べられるよう読みの力をつけていきたいです。
今回は懇親会に参加できなかったのが残念ですが、自作にていねいに向き合っていきたいという思いを実感できたのは収穫です。
参加者の皆さま、どうもありがとうございました。
短歌人2018年5月号
2018年4月夏韻集首都歌会に参加しました
4月1日に未来夏韻集の首都歌会に参加しました。夏韻集首都歌会は3か月に一度、主に新宿で開催されているのですが、記名無選歌でひたすら歌を読むというスタイルに得るところが大きく、2年ほど前から参加しはじめて、ここ1年以上は続けて参加しております。
普段は20名前後の参加者が集まるのですが、今回は15名となり、一首一首をじっくりと読むことができました。自分としては誤読もたくさんありましたが、たくさん発言しようと思って参加したので、そこはよかったと思っています。
何をもっていい歌とするのかは、それぞれの短歌観があると思うのですが、自分のなかのモノサシの精度をあげるには、やっぱり評を自分の言葉にしてみて、ほかの方の発言と比べていく、という工程が大事なのではないかと思いました。
杓子定規のようなものをあてるとヘンな解釈になってしまうのは判っていつつ、こう読めてしまうという解釈を語ってしまったところは反省しますし、暗喩の読めなさは克服せねばと思っています。
自分の歌にも両論ありましたが、大辻さんにいいと言っていただいたので、自信を持ってリズム感のある破調を使って行こうと思います。
参加された皆さま、どうもありがとうございました。
わからない歌をよむ
こんにちは、短歌人の太田青磁です。
短歌人2018年3月号の雁信に斉藤斎藤さんが次のように述べています。
短歌がうまくなるには、歌集をたくさん読むとよい。それも好きな歌集ではなく苦手な歌集、上手いけれども好きになれない歌集を読むとよい。
短歌を始めてそろそろ4年が経とうとしているのですが、同じくらいにはじめたの多くの方が、穂村弘さんの歌がよいと言っているのに、なぜかうまく読みきれない感じがありました。いいといわれている歌を読みなおして、どうして苦手なのかを考えてみます。
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
よってるの
わたしがだれか
わかってるぶうふうううの
ううじゃないかな
発話者が二人いる。酔ってるか酔ってないか、わかってるかわかってないか、この4パターンのどの可能性も否定できない。「ブーフーウー」は三匹のこぶたをモチーフにしたぬいぐるみ人形劇。ウーは一番のしっかり者らしい。
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
こいびとの
こいびとのこい
ひとのこい
ひとのこいびとの
こいびとのし
韻律の要請にしたがって、二句と三句を切る。「恋人の恋人の恋」思っている人が思っている人の恋である。これを考えてしまうのは切ない「人の恋人の恋人の死」死が提示されることで「恋人の恋人の恋」がずっしりと重みをもつ。
きがくるうまえにからだをつかってね かよっていたよあてねふらんせ
きがくるう
まえにからだを
つかってねかよっていたよ
あてねふらんせ
「ね」と「よ」の呼びかけは、誰に向けられているのだろうか。気が狂うことをあらかじめわかっているのも不気味である。通っていた(過去)体を使う(未来)気が狂う(さらに先の未来)と時間をさかのぼるように書かれている。
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち
はろおよる
はろおしずかな
しもばしらはろおかっぷぬう
-どるのえびたち
夜はわかる。静かな霜柱も韻を踏んでいて、北国の夜のイメージが伝わってくる。なぜカップヌードルの海老たちが出てくるのだろうか。句跨がりのリズムも複数形の海老も韻律として無理なく入ってくるのに景が浮かばない。
この歌についてはいくつかの言及があり、ふたつの読みをしてみました。
①(冬の夜にカップヌードルを手に外へ出る)上を向いて「ハロー 夜」と呼びかける。下を向いて「ハロー 静かな霜柱」と呼びかける。そして、手に持ったカップヌードルに向かって「ハロー カップヌードルの海老たち」と呼びかける。
②(冬の帰り道)ああ夜だなあ。(足元の感触から)ああ静かな霜柱だなあ。(家に帰ってカップヌードルに湯を注ぎ)カップヌードルには海老は複数入っているのに、わたしはひとりなのだなあ。
場面を固定するとシュールな景になってしまうのですが、場面がいくつかあると捉えると、冬の夜のたったひとりの孤独を感じることができました。
尾崎放哉の〈咳をしても一人〉に通じる世界があるのかもしれません。
感想などありましたら聞かせてください。
短歌人2018年4月号
今月の月詠です。
歌会のち二次会のち三次会のち京へと向かう夜のバスにて
スーツケースにアンソロジーを詰め込んで文フリというキャラバンに出る
夜行バスの座席は巣なり ペットボトルを数本持って巣にこもるなり
眠剤をキメそこなって一睡もできねばバスのたびをたのしむ
音もなく灯りもなくてひとりきりあてどなくエッセイの構想を練る
早朝の京都に手持無沙汰なれば『闇金ウシジマくん』で時間をつぶす
2月号の作品に月評をいただきました。内山晶太さん、ありがとうございました。
医者・歯医者・医者・医者・ミーシャ 聞きおればいしゃばかりなるMISIAの家族
意味ではなく音に特化した一首。が、医者や歯医者といった硬めの職業とエンターテイナーのMISIAとの意味的な落差もたのしい。音の同一性にみちびかれて、ミーシャがねじこまれてくるどさくさまぎれの雰囲気をそのままたのしみたい。
感想などお聞かせいただけるとうれしいです。