短歌人2017年10月号会員2欄(1)
短歌人2017年10月号会員2欄から
『富士日記』を読んで夜明けに家を出る車のトランク静かに閉めて
/柳橋真紀子
ドイツ館の屋根にドイツのまぼろしや俘虜が第九を歌いしところ
/福永文子
不機嫌な朝にはねらるるパスワード次はゆっくり八桁たたく
/円弘子
アンコールはチャイコフスキーのセレナーデ ティンパニ奏者鼻掻きており
/植松豊
ドヴュッシーとラヴェルの違ひ?音色の固さだよねえ ピアスが揺れる
/杉本玲子
終曲はバーンスタイン・メモリアル若者称えて総立ちとなる
/矢田敏子
木炭を消しつつかじる食パンに口の周りを黒くせし午後
/蒼あざみ
人間の眼をして嘆くゲルニカの牛の心を癒してやれぬ
/桃林聖一
左右の手がシマからシマへ火を運ぶ 原爆忌にもひまわりは燃え
/葉山健介
海水に身体を溶かしいつの日かあなたを濡らす雨になりたい
/鈴掛真
染野太朗×花山周子トークショー(書肆侃侃房フェア記念)に参加しました(2)
10月1日の夕方に双子のライオン堂で開催された、染野太朗さんと花山周子さんのトークショーに参加しました。
(前回の記事はこちらから)
染野太朗×花山周子トークショー(書肆侃侃房フェア記念)に参加しました(1) - 太田青磁の日記
続いて、染野太朗さんの選です。
こぬひと|を---
まつほの|うらの
ゆうなぎ|に---
やくや|もしおの
みもこが|れつつ
掛詞、歌枕、縁語、序詞、ふたたび掛詞とレトリックをふんだんに盛りこんだ定家自選のお気に入りの一首。隙のない韻律。
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
/与謝野晶子『みだれ髪』
そのこはたち|----
くしに|ながるる
くろかみ|の---
おごりの|はるに
なりに|けるかな
その子とは自分のことらしい。初句六音は七音よりインパクトがある、という花山さんの発言はとても頷けるものでした。七音あると、4+3なり3+4なりで間が取れるのですが、六音は一気に畳みかけるような印象です。
形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり
/大口玲子『海量』
けいよう|し---
かこおし|えんと
るうしい|に---
さびし|かったと
にどいわ|せたり
この日のハイライトと言っていいくらい白熱した一首。作者情報をどこまで読みの考慮に入れるべきか迷う。多くの形容詞から「さびしい」という言葉を選んだところがいい。
思い出のひとつのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ
/俵万智『サラダ記念日』
おもいで|の---
ひとつの|ようで
そのまま|に---
しておく|むぎわら
ぼうしの|へこみ
30年経っても高校生に愛唱される短歌とのことです。四句の字余りと句またがりが読者の心にフックを掛けるのでしょうか。
海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海を見ている
/五島諭『緑の祠』
うみにくれ|ば---
うみの|むこうに
こいびと|が---
いるよう|にみな
うみを|みている
そして、今の高校生に訴求する歌。順接確定条件の「ば」が規定する世界。海が3回あるが「み」は5回繰り返される。
こんくりいと|----
ぜんぶ|はがして
つちに|する--
つちを|たがやす
そして|たねをまく
特集「テロ等準備罪を詠む」より。初句は畳みかけるように、結句はゆったりとおさめる。
ひとりで読んでいたらなかなか気がつかないことにも、すっと手を差し伸べてくれて歌のよいところを伝えてくれるような時間でした。
染野太朗さん、花山周子さん、素敵な時間をありがとうございました。
染野太朗×花山周子トークショー(書肆侃侃房フェア記念)に参加しました(1)
10月1日の夕方に双子のライオン堂で開催された、染野太朗さんと花山周子さんのトークショーに参加しました。
15名程度のわりとアットホームな空間に、染野さんと花山さんがそれぞれの10首選を持ち寄り、お互いに語り合うというとても楽しいイベントでした。
10首を全部やるよりは、絞ってやりましょうということで和歌・近代短歌・現代短歌を網羅しつつ5、6首を選んで自由に読みを語っていただきました。
染野さんと花山さんの対談はとても面白くて、いろいろと分かりやすく説明してくださったのですが、でもやっぱりわからないこともたくさんありました。わかった気になって帰ってくるよりは、レジュメに載っていた歌が収録されている歌集や連作を読んでみて、感じることを大事にしていこうかと思います。
というわけで、取り上げられた歌をリズムを中心に読み直してみました。
まずは、花山周子さんの選から
君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
/詠み人知らず『古今和歌集』(※わが君は)
まず、国歌を縦書きで見たのがはじめてかもしれないです。
私が君が代を切って読むとするとこんな感じになります。
きみがよ|は---
ちよに|やちよに
さざれいし|の---
いわおと|なりて
こけの|むすまで
さざれいしは5連符のような感じで早口になります。
この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
/藤原道長『小右記』
このよを|ば---
わがよとぞ|おもふ
もちづき|の---
かけたる|ことも
なしと|おもへば
このくらい突き抜けるとすがすがしい。いい気分になりたいときに思い返そうと思います。二句の強調。
さようならいつかおしっこした花壇さようなら息継ぎをしないクロール
/山﨑聡子『手のひらの花火』
さような|ら---
いつか|おしっこ
したかだ|ん---
さようなら|いきつぎを
しない|クロール
「さようなら」のリフレインが四句の字余りを感じさせず急ぐことなく読ませる。
さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく
/望月勇治郎『あそこ』
さかみち|を---
ぜんそく|りょくで
かけおり|て---
うちに|ついたら
ばくふを|ひらく
濁音のある強い言葉だけが漢字で表記されていて、清音のことばはすべて開かれている。戦場は坂の上、政治は坂の下か。
きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話
/平岡直子「たべるのがおそい」vol.1
きみのほ|ほ---
テレビ|みたいね
はくめい|の---
にじゅっ|せいきの
おもいで|ばなし
きみ、頬、薄明、20世紀、思い出話という名詞が並ぶ。薄明のは下の句に掛かるのか、テレビに掛かるのか。
背と腹にカイロを貼りて校門を目指すことあり とても寒くて
/染野太朗『人魚』
せとはら|に---
かいろを|はりて
こうもん|を---
めざす|ことあり
とても|さむくて
主体の動作を外側から描写しているが、結句で突然内面の感覚が出てくる。一字空けに十分時間を取って読みたい。
(続きます)
作品月評8月号に掲載されました(短歌人2017年10月号)
8月号に掲載された短歌の評をいただきました。
短歌人2017年10月号 作品月評8月号会員2欄 斉藤斎藤評
納会は納涼船なり桟橋に職責順に社員居ならべり(太田青磁)
大きくはない船に積み込まれ、勤務時間よりも窮屈そうな納会のはじまりですね。内容はもちろん、「納~納~」「~に~に」という一首の律儀な組み立てが、気づまりな空気を強調しています。座席表を俯瞰するような「居ならべり」もグッド。
斉藤斎藤さんに選歌をお願いしてから、はじめて評をいただきました。とてもうれしいです。
今回はSelectionにも掲載されました。
短歌人2017年10月号 Selection 8月号会員2欄 林悠子選
この階段を降りてきたのか違うのか中二階のある居酒屋に迷う(太田青磁)
この歌は、歌会の打ち上げでした。
感想などお聞かせいただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします。
夏韻集首都歌会に参加しました
10月1日は朝から未来夏韻集首都歌会に参加しました。
大辻さんの歌会では、各自が人数分の詠草を用意してのぞむ無選歌の歌会なのですが、作者がわかった状態で批評を聞くのは貴重な機会だと感じており、できるだけ参加したいと思っている歌会です。
なごやかな雰囲気のなか、オーソドックスであるが故に、意外と流してしまうところを丁寧に読んでいただきました。意味からではなく言葉から詩を立ち上げること、感情の動きにふさわしい重さの修辞を制御すること、作者の視点はどこからどこを見ているのか、時間の流れは自然か、などです。
今回は、視点に関する評をいただいたのですが、見えないはずのものを書かないというのはやはりむずかしいですね。
見学に来られた方ともお会いする機会に恵まれましたので、また参加できればと思っております。
いい歌を作り、いい批評が述べられるようになりたいものです。大辻さん、夏韻集の皆さま、一緒くださった皆さま、どうもありがとうございました。
短歌人2017年10月号
今月の月詠です。
整理券をお取りくださいというバスに揺られて向かう石切場まで
塩を舐め四千回も鶴嘴(つるはし)を振るいて切りし頃もあったと
天然の冷蔵庫なり石室(いわむろ)にドンペリも備蓄米も格納されて
極彩色のライトはるけく十字架と石棺並ぶ部屋を照らして
特撮のワイヤーロープをくぐらせし金具が石に突き刺さりおり
8月の短歌人夏期全国集会は宇都宮で開催でした。すこし前乗りして近郊の大谷記念館を砺波さんと葉山さんと見学しました。
短歌人10月号を読むと、夏季集会の熱気が昨日のことのように感じられます。相田さんやまともさんの歌はすっかりあるべきところにある感じで頼もしいです。
感想などお聞かせいただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。
短歌人2017年9月号
今月の月詠です。
北鎌倉のホームは狭し降りたてば心太(ところてん)のごとく押し出されたり
明月院への参拝の列長ければ早々にスルーする軟弱なわたし
道の辺の紫陽花は日に褪せておりスーダンの地の前線思う
自販機に取り付けられた栓抜きで栓抜くときの壜の手ごたえ
建長寺武門の寺の面立ちに気持ち背伸びす風吹きぬけて
6月に参加した花咲歌会の鎌倉吟行を一連にしました。特集以外で連作を月詠に出すのははじめてでした。ご一緒してくださった皆さま、どうもありがとうございました。
書評が終わりひと段落ではあるのですが、読んで書くことも習慣にできればと思っています。
感想などお聞かせいただけるとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。
短歌人2017年8月号「20代・30代会員競詠」より
短歌人8月号は毎年、20代・30代の特集があります。わたしは30代の終わりで短歌をはじめたため、一度しか参加できませんでしたが、題をつけて連作を出す経験は得がたいものがあるなと思います。欄頭から3首を。
無防備な笑みを浮かべているような一重の薔薇の花片にふれる
/黒崎聡美「薔薇園」
一重の薔薇はどこか危うさを感じさせる、そんな薔薇の表情を無防備な笑みとたとえて、存在を確かめるようにそっとふれる動きがスローモーションで浮かぶようだ。
こわれてから捨てるキッチンタイマーのうさぎの顔のかたちしずかな
/大平千賀「梅雨入り」
結句のしずかなに、キッチンタイマーとしての機能を失ったときにはじめて見せる無垢なうさぎの顔を捉えてしまう主体の躊躇のような感情の動きがみえる。
わたくしを食ひ散らかして安らかに子は腹満ちて目を閉ぢている
/桃生苑子「母なる音」
一読よく分かる母になる喜びの歌。乳児に対して、わたくしを食ひ散らかして、と大仰に入るところがどこかわが子を対等に見ているようでもあって微笑ましい。
今回の特集と連動して、三角点(エッセイ欄)は特集号参加者の方々で構成されていました。また、現代短歌から好きな歌を一首紹介というのは、いい歌バトルとも連動していたのかもしれません。
誌面全体が少しずつリフレッシュしているような感じです。 わたし自身もいい流れに乗っていきたいなと思います。
短歌人夏季全国集会 いい歌バトルプレが開催されていました。
いい歌バトル@宇都宮には、短歌人以外の結社や同人などで活躍されている方々にもたくさん見学に来てくださいました。なかでも、伊舎堂仁さん、睦月都さん、伝右川伝右さんが、短歌人の歌人の歌を持ち寄って
というイベントを開催してくれていたようです。
https://note.mu/gegegege_/n/ndc565192f1c9
夏季集会のはじまる前、わたしは同じ結社の方たちと大谷資料館(大谷石地下採掘場跡)を見学し、餃子を食べて臨戦態勢を作っていたのですが、短歌が好きな人はほんとうに短歌が好きなんだなあと。
バトルの内容は伊舎堂さんが丁寧にまとめてくださっているのですが、短歌人のひとりとしてこのバトルの感想戦をしてみようと思いました。
●伝右川伝右 選歌
なめらかにくぼんだ石の箸置きが指にやさしい飲み会だった
山本まともこわれてから捨てるキッチンタイマーのうさぎの顔のかたちしずかな
大平千賀
●伊舎堂 仁 選歌
鳴くだけの事ぁ鳴いたらちからをぬいてあおむけに落ちてゆく蝉ナイス
斉藤斎藤夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして
小池光
●睦月都 選歌
うまそうな食事の匂いをつくる人はやはり男の五十代だったな
髙瀬一誌
まず、この歌人のセレクトですが、 伝右川伝右さんが紹介した歌人は【短歌人を担うホープ】、伊舎堂仁さんが紹介した歌人は名実ともに【短歌人の顔】、睦月都さんが紹介した歌人は【短歌人の礎となった方】であるのがユニークだなと思いました。失礼ながら、敬称略で紹介をします。
山本まともは、実は先月に短歌人入会を決めたばかりの新人である。ではあるが数年前より短歌人の勉強会に精力的に参加しており、同世代の仲間からはようやく決断してくれたとの期待が高い歌人である。掲出歌は2014年の短歌研究新人賞候補作「デジャ毛」から。日常の違和を巧みにすくいあげている。
大平千賀は2017年「利き手に触れる」により第28回歌壇賞を受賞した、短歌人の今後を背負う注目の歌人である。短歌人所属歌人の総合誌新人賞は14年ぶりの快挙。掲出歌は短歌人8月号の20代・30代競詠にで発表されたまさに最新作である。ものの確かな手ざわりをつかむ実直な歌い方が持ち味。
斉藤斎藤は、NHK短歌選者や新感覚短歌としてバラエティ番組にも取り上げられる歌人。掲出歌を含む第一歌集『渡辺のわたし』では鋭い観察眼をどこかユニークな文体で包んでおり、口語短歌の可能性を大きく開いた歌人と言えよう。2017年より短歌人編集委員を務める。近作に『人の道、死ぬと町』。
小池光は、短歌人の重鎮であると同時に歌壇における影響も非常に大きい。掲出歌を含む第二歌集『廃駅』は小池光の抒情が最も先鋭な一冊である。歌材は日常的なものに移ってゆくが物事の本質を捉える視点は鋭い。1968年より現在まで編集委員、1985年から2011年まで短歌人の編集長を務めた。
髙瀬一誌は、亡きあとも髙瀬賞(短歌人新人賞)にその名を残す精神的支柱である。歌集は四冊と少ないが、句がまるごと落ちてしまうような字足らずを特徴とした口語破調は、追随ができないオリジナリティがある。掲出歌は遺歌集『火ダルマ』より。1966年より1985年まで編集人兼発行人を務めた。
斎藤史は、短歌人創刊者である軍人の斎藤劉を父に持ち、十数冊の歌集を持つ現代を代表する歌人である。掲出歌は第一歌集『魚歌』。短歌人はまだ発刊前ではあるが、結社を設立しようとする父への思いも現れていると言えよう。初代編集委員を務めるも、1962年に短歌人を退会し「原型」を創刊した。
これらの歌を読み返すと、やはりいくつかの傾向があって、どの歌も主体の認識で成り立っている感じを受けました。少し長くなりますが、掲出歌を読み返した感想です。
斎藤史の歌は、地中海の花に寄せて自分自身が定住という感覚を持てないでいることを、髙瀬一誌の歌は、食事の匂いからある世代の持つ感覚を再認識しまうことを、小池光の歌は食事という行為を通じて魚の生と死を実感していることを、斉藤斎藤の歌は蝉の生涯の力の入れ加減と死後の蝉への心寄せを、大平千賀の歌は、機能を失ったキッチンタイマーの形状を、山本まともの歌は、宴席での箸置きに触れた体感覚を、それぞれ歌っていて基本的に自己完結している(二人称の不在)があげられるのかと感じました。
昨年の短歌人20代・30代競詠評(2016年11月号)で塔の大森静佳さんが指摘していた「現実の渇きにむきあう」で、職場や家庭など日常生活の息苦しさに向き合う、恋や愛の歌がほとんどないことにも驚く。と書かれていたように、短歌人の社風なのかもしれません。
また、破調の歌が多いなという印象もあります。斎藤史の歌は58687。髙瀬一誌の歌は58679(珍しく字余りです)。小池光は魚を「うを」と読めば57577の定型ですが、個人的には余らせても皿と合わせて「さかな」で57677と読みたいです。斉藤斎藤の歌は57787。大平千賀の歌は67577。山本まともの歌は入会前なので比較してよいのか分かりませんが57577の定型です。ただ、髙瀬一誌と比較した議論で、結句を「だったな」と入れて57578と読んでも、かえって落ち着くような印象も受けます。
〈夏至の日には定型で(げしのひに)と(うをのちに)が呼応しているのかもしれません:加筆訂正〉
これらの字余りは、それぞれの歌の主体がどこか共通して持つ、日常生活に対する屈託であったり、対象に対する微妙な距離感であったりして、リズムを溜めることによる心の留保を読者に示しているという印象を受けました。
さらに加えると、都市生活者としての視点がどの歌にもあるように感じます。短歌人は「現代を生きて、現在を詠うーー。」という文言を広告に載せているのですが、斎藤史の歌は戦前の歌ながらにして非常にモダンです。他の作者の歌も自己の認識を俯瞰する視座があって、落ち着いた印象を受けるのです。感情は「やはり」「ほのか」「ナイス」「しずかな」「やさしい」と主体のなかにある空間を作って置かれています。
年代も世代も異なる6人の歌から、何かを感じてしまうのは、自分自身が短歌人という結社にいて、その空気を非常に好ましく思っている、といえばそれまでなのですが、図らずもこういう歌をよしとする結社があるということが、外部の方に伝わればうれしいなと思います。
あらためまして、伊舎堂さん、睦月さん、伝右川さん、素敵なバトルをありがとうございました。また、この内容を記録して公開してくださったことにも深く敬意を表します。
長くなりましたが、最後まで読んでくださった方にもありがとうございました。