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太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

『洞田』批評会に参加しました。(1)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

2月25日に洞田明子として、『洞田』批評会に参加しました。

染野太朗さんと吉岡太朗さんが立ち上げたユニット「太朗」が、題詠「駅」を募集して、集まったすべての歌を一首も落とすことなく再構築された歌集が『洞田』です。

歌集批評会は司会に斉藤斎藤さん、パネリストに阿波野巧也さん、大辻隆弘さん、花山周子さんというとてもぜいたくな顔ぶれで開催されました。

批評会当日は、近代短歌の「私」に対する果敢な検証というテーマを深く理解できませんでした。歌集が参加型の「エンターテイメント」だと無条件に思っていたところがあったので、今回自分の感想を書くにあたり、レジュメや発表の内容をもとにして、もう一度『洞田』を読み返してみました。

 

■Ⅰ部(主に口語新仮名)

阿波野さん:「洞田」(女性)と「戸綿」(男性)が思春期に出会い、恋愛し、別れるまでが一連の主題。
大辻さん:キャラと「私」(「ほんとうは」「黄色い線の内側で」)他者との関係性における「私」(「戸綿日記」「続戸綿日記」)
花山さん:「ほんとうは」とても読みづらい。詞書/外部からのストーリー。一首一首は意味性の強い完結型。回路のチューニングが合わない

(まとまりなく長くなってしまったので、Ⅱ部以降は次回に続きます。)

 

【ほんとうは】
「洞田家に生まれる」「少しだけそのときの記憶がある」「五歳の誕生日」「母は商社勤務」文体もバラバラであり、母親の視点で書かれた歌は洞田明子の歌として読んでよいのだろうか、という疑問がある。花山さんが指摘した「チューニング」の合わない感じはしばらく続く。

「中学生」男子たち、わたくし、わたしたち、ポムポムプリンと主体がずらされていく感覚に包まれる。

「東京の高校に入学、父の家に住む」東京という地名が提示される。地下鉄をモチーフとした歌は響き合っている感じがある。

「父の書斎の宮沢賢治全集」星の駅、ミヤザワケンジ。ここは何首かまとめてストーリーを作れたと思う。

「駅で見かけたK高の制服」一首一首がつかみにくい歌が続く。詞書の間隔が短くて、編者のメッセージに分断されている印象。

「父の手ほどきを受け、はじめて作った短歌の連作「乙女の駅」」乙女という言葉を使った歌を使って、突きぬけた連作としてまとめている。大辻さんの指摘のとおり、どうみてもはじめてと思えない作品を集めているのは、意図的な諧謔があるがあまり成功していないように思える。

「K高の戸綿君と電車で話をするようになる」ここから相聞のテイストになる。

「喧嘩するときはだいたい帰る間際、いつも私の圧勝」これは説明しすぎだろう。

「三年間の日々」一転してざっくりとしたまとめになる。

「卒業、わけあって大阪に戻ることに」別離をいうために地名を出しているのではないか。

【戸綿日記】
「洞田(をんな)もすなる短歌といふものを、戸綿(をとこ)もしてみむとするなり」突然、旧仮名の歌が一首だけ提示されている。これがやりたかったというのは伝わってくるが、かなり唐突な感じを受ける。

「高校生、親の転勤で東京に来た」出会いのシーンを朝のホームから始まるストーリーにのせているのだが、文体のガチャガチャした感じはやはり気になる。

「もちろん腰に手を当てて」これは作者のつけた詞書らしい。ここに置いたのはコミカルなテイストを戸綿に持たせたかったのだろうか。

「大学生、日本中を旅した」阿波野さんが指摘していた通りざっくりとしたまとめで各地の地名を吸収している。地名が続くのであれば、配置にもう少し工夫がほしい。(自分の歌を含めて)特急が続くとやはりうるさい。渋谷と四ツ谷はここに置くのがよかったのだろうか。

「大学二年、夏」なぜ二年の夏に限定したのかはわからない。新宿、小田原、阿佐ヶ谷、高田馬場という固有名詞がぶつかっているように感じる。

「冬」一首のみ。別れの予感を提示させるが、冬はつきすぎではないか。

【黄色い線の内側で】
再び洞田の視点に戻ってくる。下の句の「黄色い線の内側で待つ」が重なった二首を連作の最初と最後に置いて、相聞テイストの似た歌を集めている印象。

横須賀線横須賀線は「冬」の逗子行きを受けているのだろう。別れの予感が実感になる。クレイジーケンバンドに「せぷてんばあ」という曲があり、失恋をした主体が横須賀線の最終で海に来ました、というのを思い起こす。

「山手線」東京にいた頃に出会いと別れがあったことを暗示させている。離別や死という重みのある歌が並ぶ。

【続戸綿日記】
ここも横須賀線から始まる。戸綿日記と続戸綿日記を同じ路線でつなぐことで、洞田の歌を回想のように見せているのではないかと思う。

「社会人」通勤風景を切り取った歌を並べている。

「ネームプレートに「ヤスヨ」とある」ここからコミカルな歌が並ぶ。この歌の主体は男性らしくないのではとの指摘があった。

「大阪出張」「大阪は洞田の生まれ故郷」コミカルな流れで、編者の作った設定を思い出させるような歌が並ぶ。

「おれの生まれ故郷は静岡」「静岡から姉が来る」もう一つの設定である戸綿の出身地が明かされる。

「花柄の傘を提げて」ようやくK高の制服の歌の伏線が回収される。さすがに引っ張りすぎな感じ。

「洞田がいまどこにいるのかはわからない」旧仮名の歌が再び出てくる。だが、最後の歌は新仮名に戻る。最後の歌の無常観を出したかったのだと思うのだがやはり仮名遣いの変化の違和感は大きく、この一首だけに絞ったほうがインパクトはあったと思う。

 

次回に続きます。

――駅に始まり、駅に終わる、洞田明子の第一歌集。231首を収録。――

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短歌人2017年3月号

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の月詠です。

歌人2017年3月号 会員2(太田青磁)

二〇一七年一月一日うるう秒 一秒ながく初夢をみる
十四歳五ヵ月が七十六歳の「神武以来の天才」倒す
軽やかに腕をしならすチェリストは樵(きこり)のごとく組曲を弾く
空爆を見てきたような顔をして口内炎を舌先に突く
木魚を叩く坊主のリズムが斎場全体を支配している

2017年1月号掲載の歌をSelectionに選んでいただきました。

「21じゃきついんだよね」上履きを買い替えるたび口調大人びて

関浩子さん選歌をありがとうございました。

 

短歌の感想などお聞かせいただけるとうれしいです。

柴田葵「生活をする」を読みました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。
柴田葵さんの歌壇賞応募作「生活をする」30首にを4名の評者が書いた評が、ネットプリントで配信されました。
それぞれの違う角度から寄せられた評は読みごたえがあり、楽しく読むことができました。
せっかくなので、わたし自身も拙いながら、一連を読んだ感想を記しておこうと思います。

いずれにしても私の席は無いのだと四角から成るビル群を見る(1) 

 ビジネス街を外から俯瞰するような視点である。席は無いことを自覚するということは、ある種の諦念があるようで、違う生き方を選択するということを選んだことが一連に読者をひきつけるようでもある。

旧姓の印鑑は保存するべきか 土に埋めたら何か生えそう(2)

 旧姓のもつどこかウェットな感覚が「何か生えそう」というユニークな視点を見せてくれる。一首目と対になる社会と家庭の対比はややステレオタイプな印象もある。

大空のような男に「ついてきて欲しい」と言われ 私が女(5)

 私が女という結句に主体の矜持が垣間見える。配偶者を大空のようであり、ついてきて欲しいという願いを受け入れることを選んだという決して流されているだけではないと主張しているようでもある。

正円の小皿を濯ぐ細い水 流れるように明日ここを発つ(6)

 この一連で、主体の感性が最も表れている印象を持った。様々な葛藤はあるのだろうが、あくまでも水のように自分を処するということはなかなかできないことであろう。配偶者に対する信頼と新たな世界への好奇心が、きれいに描かれている。

 3首目の魚類のリフレイン、4首目のヒカリモノである鯵の描写は表現としてはユニークながら、新たな世界に対する現実の世界を描くには少し散漫な印象を受ける。7首目から10首目の母との別れの歌も、回想と予感という時系列の見えなさに戸惑う。9首目「夜夜中(よるよなか)」には工夫はあるものの「予感が曇る」は読者を混乱させている。

腰掛けた姿勢のままで九時間飛んでいく私の下にひろびろと青(11)
グッモーニンカリフォルニア! 寝室の窓を壊して刺し込む光(12)
アメリカの広くて広いアパートの洗濯機動かないじゃんかもう(13) 

 日本を離れ、アメリカ西海岸へと舞台が移る。「ひろびろと青」「刺し込む光」からは配偶者の「大空のような男」のイメージと重なるようである。細い水の世界とは明らかに異なる解放感がある。だからこそ、生活という観点でのおおらかさといい加減さは、繊細な主体にとっての違和を伝えるようである。

破かれるための包装紙きらきらひとまき三ドルふたまき五ドル(16)

 微妙にリズムを崩しながら、包装紙というつかの間のきらめきを表現している。具体的な数字も光るが、実際は違っても「ひとまき二ドルふたまき五ドル」など下句の韻律を定型にはめると上句の句跨りがより効果的になるのではと感じた。

 14首目(鳩が汚い)18首目「鳩の集団に加えてもらえず」19首目「悲しい獣になりたい」「象はだめ」20首目「電線をリスが齧って」21首目「揺れる蜘蛛」と生き物に自分の気持ちを投影している歌が中盤に並ぶ。外国でのコミュニティに対する違和感は、ものを言わぬ生き物へのまなざしに向けられるようである。

不意に你好と言われて曖昧に会釈するだって日本人だし(20)

 この歌に込められた感情をテキストから読み解くのは難しい。当然、欧米人からアジア人の国籍を正確に把握するのは難しいから、最も多いであろう中国人と誤解して挨拶をしてきたシチュエーションであろう。ここでの対応は、いかにも日本人らしいとも言える。アイデンティティをことさらに主張しない生き方は「細い水」の精神にも通じるものがあるのかもしれない。

あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている(22)

 突如、日本に住む旧友に思いを馳せる。21首目で住所や名字が変わる人々を思ったなかの一人でもあるのだろう。小田原は具体的であるが、関係性が見えないことで、祖国に住む友人を案じるのはどうしてなのだろうか、23首目の回想もあの友との記憶なのだと読めるのだが、場面転換は少し強引に感じた。

きっぱりと異国の空に塞がれて地べたを見ればいきものの影(24)

 異国での閉塞感を強く表現している歌で、一連のなかでも良いと感じる歌である。異国の空は大空のような男でもあるだろう。いきものの影は一連に出てくる動物たちを思い起こさせる。

麦笛のその空洞のおおらかさ これから先も生活をする(28)

 タイトルを背負った一首である。意欲は伝わってくるものの「その空洞」がどうしてもわからない。閉塞感を打ち破る何かが起こったのか、それでも生活をするという覚悟を決める心境の変化があったのか、ここはクリアに決めてほしいと願うのは読者の勝手な思いなのかもしれない。

幾人も私の内に住まわせて、いいの、全部を連れていくから(30)

 そして、すべてを受け止め切った形で一連は終わる。幾人は誰なのか、全部は何を指しているのか、連れていくのはどこへなのか、疑問は残されたままである。「私の内に」は10首目の「新しい命を宿している」を回収しているととることもできるが、異国の空に塞がれた主体と配偶者の関係が描かれていないのは、どうにも落ち着きがないように感じた。

 14首目の「誰からも嫌われない」、21首目の「誰それ」のリフレイン、26首目の「誰か」27首目の「選ぶ」「選ばない」「何か」と大事なことを言わないという作品の作り方は疑問が積み重なってしまい読み進めるのに苦労した。なかなか作中世界に入り込めなかったのは、性別の問題なのか、経験の違いによるものなのか、否定形の多用なのか、それとも抽象的な表現がリアリティを結ばないからなのか。どうにも評価を定められない感じが残ってしまいこのようなまとめ方になってしまったのは、読みの経験が浅いからゆえにご寛恕いただきたい。

 国際結婚での(もしくは海外に赴任する配偶者との)海外生活が織りなす希望と違和というテーマ設定は非常にユニークで面白く感じた。「生活をする」というタイトルも前向きが伝わってきて、ひとつひとつのエピソードにも細かいところを観察する主体の心の動きが感じられた。表現の工夫も随所にあって力量を感じる連作であったと思う。

 30首をまとめたことのないわたしの感想は一方的なところも多々あると思うし、読みの実力のなさが作者の意図を十分にくみ取れ切れなかった大きな原因でもあると思う。4名の評者の方の意見に賛成するところもあれば、自分とはスタンスが違うなと思うことも、そういう風にも捉えられるんだ、と思うところも多々あった。

 あかみさんの評のポイントを押さえたまとめ方はわかりやすく「アメリカの人々より母や小田原に生きる友と、迷いなく日本の方へ軍配をあげている」という評価や「最後三首の感情の上向きがすこし唐突なように感じてしまった」はまさにその通りとひざを打つように感じた。

 うにがわえりもさんの分析的な読み方はまさにそうだよね、と思いながら読んだ。2首目、6首目の評価は全く同感で、前半の読みはかなり重なっていた。中盤の不安や憤り、諦めはわたしも重要なモチーフであると感じた。ラストのまとめ方は少し意見の違うところもあったが、30首の構成の組み方に対する着眼がさすがだなと感じた。

 椛沢知世さんは、生きることの逃れられなさを正面から捉えて等身大の主体を評価している。女性としての細やかな感覚は14首目の受動態に対する反転性を指摘している。20首目の日本人としてではなく、個人としての生き方を歌うべきという指摘は的を射ており、純粋にほめるだけではない批評として成立している。

 山城周さんは、作品のストーリーを受け入れながら、ジェンダー論として読み応えがあった。あえて(書いていてつらい)と本音を挟みつつ、また日本人のアイデンティティにも触れていて、自分自身の読みの甘さを突きつけられるようにも感じた。会話体の持つ韻律感については、大きな示唆をいただいたように思う。

 改めて、皆さんの評と重なるところもあり、異なるところもあり、読みの数だけ歌の幅が広がるという経験を感じる機会でもあった。この企画によって、いずれわたしも30首の連絡を作りたいというモチベーションが高まったのは事実です。

柴田葵さんと4名の評者の方に改めて御礼を申し上げます。

第10回現代の歌人を読む会を開催しました(大塚寅彦さん、大辻隆弘さん)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

現代の歌人を読む会もついに二桁の回数を開催しました。参加してくださる人がいてくれてこその読書会なのですが、皆さんの鑑賞を聞きあいながら、読みが拡がり深まっていくのが楽しいです。

今回の歌人は大塚寅彦さんと大辻隆弘さんです。

まずは、大塚寅彦さん。

聴診器もてみづからの心音を聞きゐる医師のごとき深秋

マンションの窓モザイクに灯る夕(ゆふ)家庭とはつひに解き得ぬパズル

生きのびてその彩(いろ)ふかし朝の湯の蹌踉たる老人(おいびと)の刺青

一首目、四句までのすべての言葉が結句の比喩として深秋にかかる。深秋のもつ内省的な世界観が孤独な医師の姿として描かれる。「聴診器」「心音」「医師」「深秋」と繰り返されるシの音は「死」のイメージとも重なり、深みを持って伝わってくる。

二首目、マンションを眺めた景を窓のモザイクと切り取っている。部屋の灯りの有無や色味をパズルに喩えているのも面白い。二句の句割れ、三句の切れと音としてもパズルのようにも聞こえる。個々の家庭の問題は解き得ないという感慨が「ついに」にある。

三首目、湯上りの老人の刺青をあざやかに捉えている。蹌踉たるという形容動詞が際立っているが、老人と作者の関係は明かされることはない。いろ、おいびと、とルビで読みを限定しているが、刺青はシセイともイレズミとも読めるのも技巧なのだろうか。

続いて、大辻隆弘さん

あけがたは耳さむく聴く雨だれのポル・ポトといふ名を持つをとこ

受話器まだてのひらに重かりしころその漆黒は声に曇りき

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき

一首目、 雨だれのオノマトペから、カンボジアの恐怖政治家の名前を引き出している。耳さむくは実景ともとれるが、ポル・ポトの事件を耳にした主体が心を冷たくしているのではないかと読むこともできるのかも。あけがた、雨だれの頭韻も静かに響く。

二首目、黒電話の触感そして漆黒の色が重さを伝えて来る。まだ重かりしころという幅のある時間を、声に曇りきと限定しているところにフォーカスが絞られていく。触覚、視覚、聴覚と五感に訴えてくる。主体の吐く息の熱量まで感じられるようだ。

三首目、アメリカに対する日本人の持つ屈折した感覚を濾過したような思いが伝わってくる。「原爆の図」のアンチテーゼを「壮快よ」と透徹に問題提起をしており、読み手の覚悟が求められる。テロリストの視点から読むこともできるのではという意見もあった。

 

「美意識」をどのように表現するのかという観点で、「中部短歌」と「未来」、春日井建と岡井隆の影響の違いをも感じる会となりました。大塚さんの「死」の歌と大辻さんの「雨」の歌に注目して、もう一段ふかく読み進めてみたくなりました。

次回は、小塩卓哉さんと谷岡亜紀さんの歌を読みます。どうぞよろしくお願いいたします。

現代の歌人140

現代の歌人140

 

 

短歌人2017年2月号

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の月詠です。

歌人2017年2月号 会員2(太田青磁)

お客様の社屋に通う お客様の社食に通う またしても朝
日付だけ更新されるスケジュール 動く歩道を逆に走って
先月も先々月も協定に決められた通り残業しました
眠剤をバーボンロックで流しこむたかぶる脳を鎮めるために
眠れない夜を数える 眠らない夜を数える 闇の中にひとり

 2017年2月号には落とされていたのですが、同じモチーフで作った歌が歌会記に乗りました。

会社など燃えてしまえばいいのだと皇居の淵にカルガモの列

 上の句の心境と結句の取り合わせが面白い。

浪江まき子さん評をありがとうございました。

 

短歌の感想などお聞かせいただけるとうれしいです。

『66』を読みました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

昨年出版された、超結社の同人誌『66』を紹介します。

66は、様々な結社に属する女性歌人の相互研鑽の場として発生した「六月六日の歌会」が発展したものをまとめられた冊子です。

発表作品、合評、題詠歌会の詠草となっています。まずは作品15首よりそれぞれ3首を。

ゆふがほの蔓伸び続けつやつやと育ついのちの太さを持てり
ガリレオ温度計われのうちなるガラス玉沈んでゐたり秋は遠くて
生クリームを盛り上げてゐるカウンターに「アイス・ラテ三つ」の注文をせり
/晩夏『66』浦河奈々 

二首目、初句の大胆な字余りはガの頭韻に回収され、結句の距離を導く。

黙しつつなにかを見つめているような秋の朝顔こちらを向けり
秋陽さす部屋に五本の刃を並べ父はしづかに包丁を研ぐ
御茶ノ水駅のカーブに差し掛かる心が軋むのを感じつつ
/紺色のベスト『66』遠藤由季

三首目、カーブの体感覚を心の軋みに巧みに重ねている。カ行の韻律も心情を屹立させる。

夜たつた一人で歩くこの道を知つてゐるつひに暗渠のままの
底知れぬ森に時折見失ふ夫はけふも裸足のままで
けふどこで傷ついたのか穿きかへて脱ぎ捨ててゆくナイロンの脚
/筐体『66』岸野亜紗子 

一連に不安な自己と向きあう主体の矜持を感じる。三首目、ナイロンの脚と言い切った比喩が巧み。

ほそく鳴く猫を呼びよせ抱き上げるために伸ばした腕までが夢
マタニティマークを揺らす足早のひとに抜かれし坂の途中に
鍋底に粉ふく芋をつぶしつつドヴォルザークのあかるさを聴く
/地に種を『66』後藤由紀恵

ゆったりとした豊穣な時間を感じさせる歌が並ぶ。ドヴォルザークは8番だろうか。

広辞苑よりかさりと落つる押し花の紅褪せて思い出せぬ春の日
ひらきはじめのはなびらにしわあることの羞しさに木蓮は沈思す
ふくしまの子ども、すなわち漉きあがり初夏のひかりに濡れている和紙
/天心『66』齋藤芳生 

二首目、ゆったりとひらかれたひらがなにより木蓮の羞と沈思黙考が浮かぶ。

日付ありし葉書の文字はそのかみの暗緑のいろ滲みゐるやう
降り出でし雨をおそれてうつしみは駆け去りゆけり犬のごとくに
しろがねに芒充ちたりみちのへに刈るひとなくて秋をありたり
/銀芒『66』高木佳子 

一首目、初句の字余りに時間の経過を暗緑色の滲みには差出人への静謐な思いを感じる。

水をかく腕の確かさ今日よりも明日を信じる心はあらず
こころなるやっかいなもの抱えたる生物の呼気なまあたたかし
ぺージから煙草の匂いこぼれきて人より人の記憶が痛む
/どんぐりたち『66』鶴田伊津 

三首目、痛みを呼び起こす煙草の匂いと在りし日の記憶は深いところで結びついているのだ。

うす蒼き静脈透けるまぶたもち少女はねむるはつ秋の繭
わたくしを脱出できないたましいは公孫樹黄葉をひたすらに恋う
みどりごの眉を残してしんけんに朝の髪梳くわがプラタナス
プラタナス『66』富田睦子 

一首目、繭に眠る少女の姿に自らの少女時代を重ねるような丁寧で優しい眼差しがある。

熊を狩る犬でありしを長く飼う庭にうつむき水を飲みおり
黒髪のごとくうねりて満ちてくる夜のほとりにきみとたちおり
丸薬の白ふくみつつまなぬるき水を飲みたり本番の朝
/まぼろしの舟『66』錦見映理子 

一首目、猟犬の鋭さは長き時を経て穏やかになるのか。水を飲む愛犬への視線がやさしい。

アクリルの小さき籠に透けていし鈴虫 書店の景品として
深更の籠をひらきて霧吹きに潤ばしめたり土と羽とを
長月の長雨のはざま庭なかの何処とも知れぬ鈴の音を聞く
/脚の一本『66』沼尻つた子 

鈴虫がユニークな一連。長月の長雨のリフレインが心地よい。何処は余らせてもいずこと読みたい。

学生の頃の時間の底をかき混ぜてひと夜に垂らしてみたし
墨の筆浸けたるような空のあり関ヶ原越えゆく一人旅
もたないと思いつつする仕事あり 朝ひらきたる萩がゆれている
/半透明の馬『66』山内頌子 

一首目、混沌とした時間が句跨がりのリズムに引き立され思わず学生時代の景色が浮かぶ。

わが神は藤紫の鉄耀を四肢へ施す創造の日に
睡魔へと差し出す命、C4H10FO2P 耳骨に雪踏む音の響くころには
戦場に打ち立つ旗を引き剥がし旗の数だけ止血するなら
/萬骨枯『66』玲はる名 

二首目、サリンの化学式が表すものは何だろうか。睡魔、差し出す、雪踏む音の連想があるのか。

後半は、座談会として各自が持ち寄った一首を相互鑑賞するパートに続きます。

葛原妙子さんの歌、江戸雪さん、大森静佳さんの鑑賞を興味深く読みました。引用したい内容もたくさんあるのですが、まずは掲出歌を自分なりに読むところから始めようと思います。

結社誌でも総合誌でもない読み応えのある同人誌にも注目していきたいです。

「うたの日」についての雑感

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の短歌人の談話室で村田馨さんが書かれていたように、インターネットで毎日開催されている「うたの日」という歌会があります。私も三角点で一度「うたの日」についてのエッセイを書きました。また、昨年末に開催1,000日を迎え、記念誌の作成と記念歌会がありました。わたしも年表を編纂するチームに参加し、エッセイを書きました。

うたの日の歌会 - 太田青磁の日記

うたの日とわたし - 太田青磁の日記

「うたの日」に参加したことで、得られたものが大きく3つありました。

まずは、短歌を詠む習慣ができたことです。毎日の題を見て、わずか24時間で定型にまとめることはとても大変でした。過去作を出したり、推敲しなおして出すことも多く、毎日新作を作っている人はほんとうにすごいと思いながら、歌会に参加していました。

次に、評を書く機会を得たことです。回を重ねるうちに歌会の価値は「自分の歌がどう読まれるのか」という以上に「相互に推敲の機会を共有し、歌の良さをともに味わうところにあるのだ」と思うようになりました。拙くても自分の読みを記録することで達意の方の評と比べることができました。また、読み解けない歌に向きあうことで、知らない言葉を調べたり作者の言いたいことは何なのだろうかと考えることができました。

最後に、これがもっとも大きなことなのですが、短歌を一緒に楽しむことができる仲間が増えました。お互いの歌を読みあったり、ツイッターで他愛のない会話をすることで、短歌を楽しく続けることができています。「うたの日」を入口として、たくさんの企画やイベントに参加し、また自分でもイベントを開催することができました。

「うたの日」は玉石混交だというのは間違いなくそうだと思います。また、キャッチーな歌を出した結果として多くの票を得ることが、作歌動機を安易にしてしまうこともものすごくよくわかります。評もできる限り歌に沿っていきたいと思いながら書いたつもりでしたが、言葉が足りず不快な思いをさせてしまったことも多々ありました。

個人として限られた時間のなかで、詠草を作品として磨いていく時間や、対面での歌会や読書会に参加する時間、歌集や歌書・結社誌や総合誌を読む時間を増やすためには、匿名歌会やネットプリント、タイムラインに流れる歌を読む時間を減らさなければ時間が足りないと感じています。

「うたの日」からしばらく遠ざかっていることを気にかけてくださっている方もいらしたようなので、自分の考えていることを書いておこうかと思っていました。大した結果を残しているわけではありませんが、決して草野球に飽きたわけではなく、こっそりフォームの改造をしていたり、バッティングセンターに通っているくらいの感覚で受け止めてもらえたらと。

思ったより長くなってしまいましたが、うたの日が楽しい場であり続けることを願いつつ、もうひとつくらいは変化球を覚えてから、またふらりと参加したいなと思います。

短歌人会新年歌会に参加しました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

1月22日に短歌人の新年歌会に参加しました。全国各地から116首もの詠草が学士会館に集まり活気のある一日を過ごすことができました。

 

入会3年目で2回目の新年歌会参加となりましたが、去年に引き続きマイク係を担当しました。

これは一見簡単そうに思えるのですが、会の進行と先行批評の方、話をしたそうな人を見極めてさりげなくマイクを手渡す。そしてマイクを受け取ったあとの流れを先読みして、もう一方のマイク係の方に準備をお願いする。はじめて参加された方をフォローしつつ、評を述べるのも役割です。多少もたついたところで大きな影響はないのですが、限られた時間で議論の集中が削がれないように意識していました。

 

当日の詠草です。

いにしえの歌人の札を並べおきコンマ2秒でたたみを払う(太田青磁) 

新年ということで、競技カルタの歌を出しました。少し前の別の歌会でわりと評判がよかった歌です。17点もいただき予想以上の健闘でした。百人一首の書籍を出されている天野さんからも選をもらって大満足です。

 

歌会のあとは、懇親会です。

歌人賞の受賞セレモニーと新しく編集委員に就任された方々の挨拶、新入会の方々の紹介、歌壇賞を受賞された大平千賀さんのスピーチ、参加者全員の紹介と流れて、顧問の蒔田さくら子さんから、短歌人としても何度目かの大きな再出発とお話をいただき晴れやかな気持ちで懇親会を過ごしました。

二次会は、毎年恒例の「酔の助」で、わいわいと話をしました。一昨年の最終選考に残していただいた作品について谷村さんから激励を受けました。モーツァルトの曲はたくさんありすぎて明るすぎるから苦手だと言うところで、意見が合ったのがおもしろかったです。

その後は、斉藤斎藤さん、生沼さん、内山さんの新編集委員の方々ともフランクに突っ込んだ話ができました。自分自身の歌や作歌姿勢にも率直な意見をたくさんいただきました。

 

そんなこんなで深夜まで飲んだくれていたわけですが、とても楽しい一日でした。ご一緒くださった皆さまへ心からの感謝と、ささやかであれ会の運営と発展に貢献していきたいなと思います。どうもありがとうございました。

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短歌研究2月号「相聞・如月によせて」

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

短歌研究2月号の「如月・相聞に寄せて」から、鳥居さんの連作を中心に引用します。

【指先】

指先でひかりを剥いでゆくやうにあなたのしろいページを捲る
/「bibliophile」鳥居

暗やみにふれようとする指その指の冷たいことはもう知っている
/「つららと雉」黒﨑聡美

【指紋】
まだ硬き背に添はせゆく柔らかな歯形、あるいはさやかな指紋
/「bibliophile」鳥居

幾千の語を一瞬に消し去れど指あと残すスマートフォン
/「燻る朝」田村ふみ乃

【余白】
余白より文字はしづかで青杉の翳のさやげる季節に入りぬ
/「bibliophile」鳥居

君からの手紙が来ない日は余白 新潮文庫をココアに沈め
/「もつ鍋の煮えるころ」武田穂佳

【繭】
たましひが繭となるまで行間の淡き孤独をみつめてゐたり
/「bibliophile」鳥居

羽化しない蛹の私ほどかれて一本の糸 六月の繭
/「六月の繭」晴山生菜

【花】
その胸をひらきゆくとき仰向けに花の名前を教えてくれる
/「bibliophile」鳥居

ふかぶかと釦を留めるとめどなく木漏れ日と花びらが降る日に
/「長い眠り」飯田彩乃

【風】
交はりを終へた疲れに閉ぢゆけば君がほのかに孕む夕風
/「bibliophile」鳥居

乳首を嚙めば吹雪を着るようにさびしくなりぬ 永遠は無理
/「無理」北山あさひ

【火】
みぞおちが火を焚くやうに痛むのだ栞はさみて別れゆくとき
/「bibliophile」鳥居

横向きに眠ればそちらへ堕ちていく内臓のすべてが濡れている
/「足りない」鈴木晴香

短歌研究 2017年 02 月号 [雑誌]

短歌研究 2017年 02 月号 [雑誌]

 

 

「短歌のわたし、小説とかの私」に参加しました

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

1月15日に紀伊國屋書店新宿本店で開催されたトークイベント斉藤斎藤×佐々木敦「短歌のわたし、小説とかの私」に参加しました。

佐々木敦さんはこのイベントがあるまで存じ上げなかったのですが、文学、音楽、思想と多岐にわたる批評をなさっている方と伺い、「短歌のわたし」にどういうアプローチでのぞむのか非常に楽しみでした。

短歌のイベントにはめずらしく、一首も歌が単独で批評されることなく進行したのですが、「短歌のわたくし」とは何かという問いかけに「作者と主体」「作中での時間」「文学における人称」を中心にダイナミックな対話が繰り広げられました。

最初のうちはメモを取ろうかなと思っていたのですが、気がつくとお二人の会話に夢中になってしまいました。交わされた内容を思いながら二冊の歌集を読みかえした感想を書いてみます。(引用はすべて後日読みかえして付与したものです)

【短歌とは】

俳句は文ではなく、短歌は文である。31文字は長い。
文である以上、主語と述語がある。主語は記載がなければ「わたし」である。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとゞかざりけり

正岡子規

テキストだけではバランスを欠いている → 外側にあるものとワンセットで読まざるをえない

このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい
『渡辺のわたし』

『人の道、死ぬと町』におけるおびただしい詞書

 短歌の需要には作者の死やマイナスの出来事を過剰に要求される

あいしてる閑話休題あいしてる閑話休題やきばのけむり
『渡辺のわたし』

「きのうの夜はとてもいい顔をしてました きのうの顔に会えてよかった」
『人の道、死ぬと町』

【短歌における私とは】

写生とは、主体自身の視点なのか、主体を含む客観的な俯瞰の視座なのか

俳句や詩と比較するよりも「私小説」がぎりぎりまで削ぎ落とされたものと読むことができる

死ぬときはみんなひとりとみんな言う私は電車で渋谷に行きます

『渡辺のわたし』

みんな原発やめる気ないすよねと言えばみんな頷く短歌の集まり

『人の道、死ぬと町』

(わたし以外)誰もいませんでした → 日本語の認識は自己を省略した視点にあり、西洋の全体を俯瞰する視座と異なることがある。

誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる

『渡辺のわたし』

この世界は素晴らしいと言いふらしたいそんな私も燃されて光 

『人の道、死ぬと町』

【時間の感覚と時制について】

作中の時間軸は文の先頭から流れるものであるが、そうでない書き方がある

豚丼を食っているので2分前豚丼食うと決めたのだろう

『渡辺のわたし』

「だってわかってたらもっといろいろ」「だってわかってなかったんだから」

『人の道、死ぬと町』

口語での「た」形と「る」形の混在 → 時制の問題はついてまわる

お名前なんとおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする
『渡辺のわたし』

いつもより生きてしまった たくさんの人が生きて死にかたずけられた町で
『人の道、死ぬと町』

【「わたし」「わたしたち」「あなた」】

複数の「わたし」と単数の「わたしたち」が重なりあう

そうさぼくらは世界に一つだけの花ぼくはぼくらを束ねるリボン
『渡辺のわたし』

わたしは何も失っていないわたしたちの次の世代が失われただけだ
『人の道、死ぬと町』

 「あなた」とは作者が想定した読者なのか

あなたあれ、あなたをつつむ光あれ。万有引力あれ、わたしあれ。
『渡辺のわたし』

わたしはあなたをあいしとるのにあなたはわたしたちをあいしてる
『人の道、死ぬと町』

歌集 人の道、死ぬと町

歌集 人の道、死ぬと町

渡辺のわたし 新装版

渡辺のわたし 新装版