太田青磁の日記

There's no 'if' in life… こんにちは、短歌人の太田青磁です。

「見切られた桃」武田穂佳 短歌研究新人賞受賞後第一作

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

短歌研究新人賞を受賞された武田穂佳さんの受賞後第一作を読みました。この連作も予想通り読み応えがありました。11月号も新進気鋭の新人として紹介されているのですが、まずは「見切られた桃」を読んでみたいと思います。

始発待ちながらだんだん冷めていくおしぼりみたいにみじめな気持ち

 句またがりの上句すべてでおしぼりを描写しているかに見せて、みじめな気持ちの比喩として表現している。だんだんという時間の経過が効いている。みじめなに掛かる比喩ではあるが、主体自身もじりじりと始発を待っているようにも感じられる。

皆勤賞が嫌い貰えなかったから 見切られた桃のこと買ったげる

 見切られた桃は、皆勤賞を貰った健やかで屈託のない同級生に対する嫉妬とも揶揄とも取れる見立てである。「貰えなかった」「買ったげる」とやや舌足らずな口語の韻も、句割れの続く一首のリズムを支えている。

わたしを更新してほしい 封筒に窓の結露で切手を貼った  

 「更新してほしい」に自覚的な承認欲求が表れているようである。読み過ぎであるのは承知の上だが、作品の投稿によって自分の何かが変わるかもしれないという感覚は歌を作るものとしても素直に共感できる。

/武田穂佳「見切られた桃」短歌研究2016年10月号

季評などを読むと、受賞作に比べると若干物足りないという意見もあるようですが、受賞後第一作でも揺らぐことなく現代社会を見つめる視点には、周りを圧倒する今後の飛躍を期待させてくれます。

遅くに短歌に出会い今さら瑞々しい歌を作ることのできない私には、次世代を担う才気あふれる新進気鋭の歌人の歌を読めることが楽しみです。これからの活躍を祈りつつ読みの精度を高めていきたいと思います。

短歌研究 2016年 10 月号 [雑誌]

短歌研究 2016年 10 月号 [雑誌]

 

 

未來夏韻集首都歌会に参加しました。

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今年初めての歌会ということで、歌会始のテンション(大げさ)で臨みました。

今回は、大辻さんをはじめとした夏韻集の皆さま、未来各欄の気鋭の皆さま、心の花、塔、かりん、短歌人、無所属とバラエティ豊かな18名が集まりました。

この歌会は、自由題記名一首を各自持ち寄るという形式で、一首一首を丁寧に鑑賞しあう贅沢な時間となりました。

今回で三回目の参加だったのですが、何度かご一緒している方はモチーフの選び方や、修辞の工夫などが垣間見え、またはじめてお会いする方には、それぞれの歌への向き合い方がにじみ出ているものだなあ、という感想を持ちました。

わりと頑張って手を上げることができ、ちゃんと読めていないと思いながらもたくさん発言できたことは励みになりつつ、迎えて読んでしまうところは反省材料です。

今回は、就職活動をテーマにした詠草を出したのですが、賛否両論の評をいただき参考になりました。

結社の歌会は、自由な社風と言えども、わりと地に足をつけて歌っていこうとする印象で、その系列につながっていることはうれしいのですが、たまにはアバンギャルドな歌に触れるのは楽しい時間でした。

散会後は有志で食事をして、紀伊國屋に立ち寄り、カフェで一首一首読みかえすという、お腹いっぱいの流れでしたが、歌会で聞けなかった読みに触れることができて参加されているひとの貪欲さに気圧される感じもありました。

三カ月に一度出稽古に望み、結社の勉強も三カ月に一度、そして毎月の東京歌会と月詠。読書会も現代短歌に加え近代短歌もやっていこうとすると、何かを手放さなければという気持ちにもなります。

リアルに顔を突き合わせて、話すことで自分の思考や鑑賞を機会を増やそうと思う一年です。

大辻先生、夏韻集・未来の皆さま、あたたかく迎えてくださいましてありがとうございました。次回以降も可能な範囲で参加したく思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

f:id:seijiota:20170111001117j:plain カフェにて糖分を補給

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

歌人の太田青磁です。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、大晦日特別番組として、#CDTNK2016に参加しました。

12月31日の21時30分から、明けて元旦の1時16分まで二分おきに99名の歌人がとっておきの 短歌をタイムラインに投稿するという、視聴者(?)参加型のイベントでした。

私の出番は明けて0時2分という、まさに新年が変わってすぐのいいポジションでした。

二〇一七年一月一日うるう秒 一秒ながく初夢をみる(太田青磁)

 という時事ネタで参戦してみました。

今回は前年に引き続き、ボランティアで皆さんの投稿を公式アカウントでリツイートするという楽しい役割を担当いたしました。

一緒に担当してくださった、主催の泳二さんととよよんさんに助けられ、紅白に気をとられてぼんやりしているうちに担当時間が無事に終わりました。

 こういう、参加型のイベントが気持ちよく楽しめるのも、短歌クラスタの皆さんの多彩な才能と、つながりを大切にする気持ちの表れだなあと思います。

当面の短歌の目標は月詠を欠詠しないことですが、評論と連作を作ることを努力目標にしつつ、めいっぱい楽しめる一年にしたいと思っています。

泳二さん、ボランティアの皆さん、そして参加してくださったすべての方に御礼を申し上げます。

二〇一七年もどうぞよろしくお願いいたします。

短歌人2017年1月号

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

今月の月詠です。

歌人2017年1月号 会員2(太田青磁)

 立冬という名の響きににふさわしく 木枯らし一号吹きぬける朝

 自転車の荷台に乗せる坂道はこわいやっぱりこわい気持ちいい

 「21じゃきついんだよね」上履きを買い替えるたび口調大人びて

 班長となりしわが子ののたまうに「春風亭昇太(ショータ)といっしょ、消去法だよ」

 洋食屋のキッチンカウンター粛々と日替わりランチが行列をなす

後ろの二首は歌会などで推敲の機会をいただいた歌です。

 2017年新年号は編集委員の交代に加え、天野慶さんの時評、新しくはじまった連載、短歌人賞の選考、昇欄された方の発表と盛りだくさんな誌面です。

 短歌の感想などお聞かせいただけるとうれしいです。

うたの日とわたし

 「うたの日」が誕生した2014年4月にわたしは短歌をはじめた。読書メーターという本好きな人の集まるSNSで、短歌を作り始めた友人に誘われたのがきっかけであった。歌集や入門書を読みはじめ、どうしたらうまくなるのだろうかと考えるようになった。インターネットに集う短歌クラスタのことは全く知らず、いくつかの結社を比較して短歌人に入会した。

 読書メーターの友人から教わって「うたの日」におそるおそる歌を出したところ、初日に3名もの方からハートをいただいた。誰かに自分の歌を読んでもらえることがうれしくて、日々の歌会に参加した。花束を取るまでは半年くらいかかってしまったのだが、歌を出し続けることと、多くの方の歌を読むことによって短歌の基礎体力がつけられたのだと思う。

 短歌人の歌会に参加したのも、やはり入会から半年くらい経ってからであった。参加するたびに「とにかく発言しよう」「思ったことを口にしないのは、その歌が批評される貴重な機会を奪う」ということを言われ続けた。的確な評ができるようになるためにはどうすればいいのかを考えていたとき、評をする機会を増やせばよいのだというシンプルな結論に落ち着いた。

 野崎アンさん(たかはしりおこさん)のツイキャスに刺激を受け、「うたの人」に投稿されたすべての歌に評を書くという試みをはじめた。最初はコメントをつけるだけでせいいっぱいであったが、少しずつ評に近いものが書けるようになったのは、好きな歌もそうでない歌もできるだけ同じ分量・熱量で書くことを意識した頃かもしれない。

 ロゼッタストーンと呼ばれるような熱い評には圧倒されるけれども、気に入った歌について好きなことを述べるのはそれほど難しいことではないはずだ。また、明らかな瑕疵を指摘することもそれなりの経験があればできるだろう。だが、自分の心に響かなかった歌に評を書くのは意外と大変である。その歌の持つ可能性を探し、どこに選ばなかった理由があるのかを言葉に落とすことによって、一段深く短歌と向き合うことができたのかもしれない。

 その場で発言を求められるリアルな歌会に比べて、自分の言いたいことを整理して発表できるインターネット歌会は、評がしやすいと感じる。毎日開催される「うたの日」に比べ、「うたの人」は出詠・選評ともに一週間程度の時間があり、評を学ぶ場として最適な環境であった。知らない言葉を調べ、歌の構成を確認し、本歌にあたることが、歌の鑑賞の幅を拡げてくれたのは間違いない。ほかの方の評と自分の評を比べて読むことで、自分にない視点を手に入れ、一読で気がつかなかった歌の良さを感じることもたくさんあった。

 今、自分の中で短歌に触れる時間をどのように振り分けるかという課題にぶつかっている。溢れる情報に溺れないために、自分の中にある「いい歌とは何か」という基準を作り上げることが必要だと感じる。そのために多くの歌集や歌論を読み、先達の鑑賞に触れたい。そして、短歌について多くの人と直接会って話したいと思う。

 歌会が歌会としての熱量を持って続けていくには、参加者ひとりひとりが場の持つ力を維持していく意識が大事だと思う。「うたの日」や「うたの人」で評をもらってうれしいと感じる機会があれば、次の歌会で積極的に評を書いて欲しい。また、評がうまくなりたいと思うのであれば、全首評を試してみたらよいと思う。難しい批評用語を使う必要はまったくないし、ひとりよがりになってもいいと思う。わたしにできたのだから、きっと誰でもできるはずだ。これからもの「うたの日」や「うたの人」が楽しく、忌憚のない評のにぎわう場であり続けることを願っている。

(うたの日1000日記念号『うたの日々』掲載「全首評とわたし」)

http://booklog.jp/item/3/109854

2016年を振り返って

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

2016年の短歌活動を振り返ってみます。

 歌を詠むという点では、今年はこれといった進歩がみられずもどかしい一年でした。欠詠しないという最低のラインをギリギリ越したという実感です。

 歌を読む場を作る、人と出会う場に足を運ぶ、地道に歌を読み続けるということを意識して活動しました。結社に仲間を募り入会してくれた方に恵まれたこと、拙いながらも「さまよえる歌人の会」で発表の場を持てたこと、読書会が定期的に開催できていることは、自信につながりました。

 短歌人の歌会は、11回中9回参加(新年歌会出席、全国大会・11月は欠席)勉強会は4回皆勤、とホームを大事にという意識で臨みました。歌自体はあまり光るものは出せませんでしたが、散会後や懇親会で評や発言姿勢を肯定的に捉えてくださる方がいたことはうれしかったです。

 未來の全国大会に混ぜてもらったり、大辻さんの歌会に参加することで、短歌の間口の広さを感じました。文学フリマの日に懇親会を企画して、遠方の方を含め多くの歌人の方にご参加いただきました。結社や世代、地域といった壁をわずかでも下げることができればとの思いでした。短歌の場ということを考えると、都内在住で週末に休みが取れるということは恵まれているのかも知れないと思うようになりました。

 来年の目標は、まとまった数の連作を作ることと評論を書くことにチャレンジしてみたいと思っています。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

第9回現代の歌人を読む会を開催しました(穂村弘さん、林和清さん)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

第9回現代の歌人を読む会を開催しました。この読書会も多くの方に参加いただきながら一年が経ちました。

今回の歌人穂村弘さんと林和清さんです。「かばん」と「玲瓏」のお二方の歌を7人で味わうように読みました。

まずは、穂村弘さん。

はんだごてまにあとなった恋人のくちにおしこむ春の野いちご

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。 ハロー カップヌードルの海老たち。

おやすみ、ほむほむ。LOVE(いままみの中にあるそういう優しいちからの全て)。

一首目、「はんだごて」はわかるけれど「はんだごてまにあ」とはなんだろうかと。このひらがなの使い方が穂村弘の世界であるのかもしれない。「春の野いちご」との圧倒的な意味の飛び方を、語感の近さで着地させる技は真似したくてもできないだろう。

二首目、なめらかな韻律にのせて「ハロー 【名詞】。」の組合せを三回繰り返すコピーのような文体。夜、静かな霜柱、カップヌードルの海老たちのつながりは明示されませんが、どことなくひんやりとした孤独が伝わってくる。

三首目、「ほむほむ」へのメッセージという形式ではあるが、この名称を自分の作品中で登場させるのはやはり凄い。初句が「おやすみ、ほむほむ。」そして、二句目の句割れから括弧のなかへアクロバティックに展開してゆくLOVEの強さがひかる。

 

続いて、林和清さんです。

淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり

いつぽんの桜の不安が桜へと伝染してゆくやがて爛漫

参道に玉砂利を踏むこの石のいくつかはかつて誰かの眼球

一首目、しづもるは、静まる(鎮まる)の意と取れるが、雪が静かに積もるようなイメージを想起させ、静謐な印象がある。ふかきふかきのリフレインに加えて、三句・四句と続く字余りが、雪が降る時間と御所の持つ歴史の流れを感じさせるようだ。

二首目、桜のつぼみから結句の爛漫に至る時間が映像ようにのイメージできる。いつぽんはソメイヨシノのクローンが各地に伝わる感じであろうか。「いつぽん」「不安」「伝染」「爛漫」と「ン」の脚韻も美しく響く。

三首目、玉砂利を踏む瞬間のわずかに沈む体感覚を、眼球を踏むという非現実的なイメージに回収している。三句以下、「いくつかは」「かつて誰かの」という曖昧なぼやかせ方が、カ行音の連なりと相まって目に見えない怖さを湿り気なく伝えて来る。

 

対称的な作風ではあるものの、同じ年に生まれた二人の歌人のそれぞれに透明感のある世界観を感じる貴重な機会でした。

現代の歌人のアンソロジーを読みはじめて1年が経ちました。巻末から歴史を遡るように、少しずつ年上の歌人に出会うのが楽しく、毎回新しい発見があります。塔、短歌人、心の花、コスモス、かりん、未來、かばん、玲瓏、と結社や同人の持つエネルギーに触れることができるのも大きな収穫です。

次回は、大塚寅彦さんと大辻隆弘さんの歌を読みます。どうぞよろしくお願いいたします。

現代の歌人140

現代の歌人140

 

 

2016年自選五首

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

2016年に発表した歌から、五首を紹介します。

 原発を再稼働します 防災は各自治体にお任せします

/短歌人2016年5月号

社会詠をしておかなければという思いが先走っている感じでした。結社の方に好意的な評をいただき励みになった歌でした。

午後五時にドボルザークを口ずさむ 帰れる家のあるあたたかさ
/うたの日2016年6月11日「17時」

うたの日が5ルームになった日の最初の薔薇です。のちに「濁音」でこの歌を思い出してくださった方がいたのもうれしかったです。

ティンパニをかかえて降りる階段が最初の試練 コンクールの朝
/2016年7月24日うたの日「階段」

うたの日で初めての秀歌でした。岩手県にある中学校の黒板に吹奏楽部への応援メッセージとして書いていただいた歌です。

居留地にテニスボールの音はずむ山手の丘を風吹きぬけて
/短歌人2016年8月号

結社の吟行で横浜を訪れたときに作った歌です。日本テニス発祥の地にて在りし日を思う歌は、現地に行かなければできなかったと思います。

夕暮れのスカイツリーはあでやかにうす紫のひかりこぼせり
/短歌人2016年11月号

個人的にお気に入りの叙景歌です。スカイツリーは毎日のように見ているのですが、時々見とれてしまうことがあります。

 

今年は足元を固めるのがせいいっぱいでなかなか媒体への投稿ができずにおりましたが、来年はもう少し活動の場を拡げていきたいと思っています。

瀬戸際レモン(蒼井杏)

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

少しずつブックレビューのような記事もはじめていきたいと思っています。

今回は蒼井杏さんの『瀬戸際レモン』を紹介します。

蒼井さんは第6回中城ふみ子賞受賞、第57回短歌研究新人賞佳作、と輝かしい経歴を持ち、満を持して第一歌集を上梓されました。未来彗星集という綺羅星が集まる欄にて、独特の対象との距離感や繊細な観察眼を軽やかなリズムに乗せて歌っている印象を受けます。

まずは表題ともいえる「檸檬」との関係性から。

リプトンをカップにしずめてゆっくりと振り子のように記憶をゆらす
レモンパイなど食べながら わかってる もう檸檬には戻れないこと
てのひらの心臓としてくるむレモンふりさけ見てもため池がない
ここがたぶん瀬戸際でしたゆっくりとレモンの回転している紅茶
いちまいのきおくのたどりつくとこ瀬戸際レモン明るんでゆく 

レモンの出てくる歌には、レモンティをゆったりと淹れるイメージと、追い詰められた瀬戸際でも自分を失わず、酸いも甘いも受け入れるのだという、矜持のようなものが合わせて伝わってきます。

なんといってもこの歌集は、詩歌のもつリズムを感じる歌が随所にあって、目で読んでも口ずさんでも心地よさが感じられるところがとても好きだなあと感じます。

ひとりでに落ちてくる水 れん びん れん びん たぶんひとりでほろんでいくの
18-10 STAINLESS STEEL JAPANの字を見ているわたしをみつめているスプーン 
あたしもうだめかも なんて かめパンの首・尾・手・足 順番にもぐ
とらんぽりん ぽりんとこおりをかむように月からふってくるのだこどくは
あぶらぜみかたぶらぜみととなえつつ駅で時計をさがしています

 一首目の「れん びん れん びん」はここだけ楽譜の繰り返し記号がついているようなゆったりとした時間を、四首目は、とらんぽりんに飛び込んだ主体が半分だけ跳ね返ってくる様子が、こおりをかむ音のイメージに回収されていてとても好きな歌です。下句の「ふってくるのだこどくは」という箴言のような物言いも好きです。

そして、主に冒頭の一連「空壜流し」から、繊細な自己を、硬質なイメージによる外界と距離を感じさせる壜もモチーフとして大きな意味があるようです。

音のない夢でした透明な唇つめて空壜ながす 
君を見た。すべての音を飲み干して空壜になる駅コンコース。 
空壜が笛になるまでくちびるをすぼめるこれはさみしいときのド
百色の色鉛筆を窓際の空壜に活ける ここは春の森
地球壜の画像をさがすわたくしはむかしあるところかたまりでした

三首目の壜をフルートのように吹く主体のひとり遊びのような感覚と出てきた音を音階で聴き分けて、さびしいときのドと感情を音程に語らせるのが巧みです。五首目は地球壜というボトルシップのようなものでしょうか。なにか自分と地球のサイズ感が入れかわるような不思議な感覚があります。 

そして、「多肉少女と雨」の連作で執拗に繰り返される結句の「読点+雨」

ピーターの絵本のように函入りの記憶がありますひもとけば、雨
はなびらをうまく散らせぬ木があってもう少しだけ見ています、雨
8Fのシネマフロアの自動ドア開けば空中庭園は、雨
七色のボールペンには七本のばねがあるのでしょうね、雨
この人はもういないのだと思いつつあとがき読めば縦書きは、雨。

一首目、雨の日に幼いころの記憶を追想するかのひととき。函入りの絵本は宝物のようだったのでしょう。四首目、リフレインを使って細かいところ細かく歌っていながら、結句の字足らずがリズムを巻き取るようで好きです。五首目、下の句のあとがき、縦書きと迫りながら、最後に置いた句点が歌そのもの、そして一連を物語るかのようです。

このほかにも、体感覚に訴える歌、とくに足先や鼻といった、詩情から一歩離れた部位に対する執着のような感覚もひかります。

靴下の穴からのぞく親指のようにわたしをはみだしてゆく
おおいなるわすれたいことかさぶたをひざ折り曲げてはがしています 
だってもう消えたい湯ぶねの靴下のゴムのあとをたどって
ものすごく鼻がかゆくて部屋中の時計を三分進めています
に、してもひざにだれかの耳をのせ穴をのぞいてみたい夜長だ

そして、表記を大胆に使った実験的な作品

本だなの/ななめの本を/いつの日か/ここに    ///おさまる本のあること

コンタクトレンズ)をこする)あのひとが)きらい)だとかもう)言えない)のです。

スラッシュの歌は、スペースをもっと韻律に乗せて、「おさまる」を言わずに語らせるやり方もあったのかもしれません。少し下句が流れてしまった印象です。コンタクトの歌はやはり縦書きで読んでほしいのですが、ブツ切れの感じが、主体を守るバリアのような感じがあっていいなと思いました。

主体は自分の生き方(一人の世界)を割と肯定的に捉えつつも、世界との距離感をうまくつかんでいて、その観察眼が詩的跳躍を生んでいるのだなと気づかされます。

こんなにもわたしなんにもできなくて饂飩に一味をふりかけている 
でもきっとなにもしないのがいいのでしょう くつひもほどくどんどんほどく
おめでとうございましたの帰り道いちばん上までファスナーあげて 
わたくしをほうっておいてくれましたあしたの日記のように雨だれ 

 一首目、髙瀬一志さんの〈うどんやの饂飩の文字が混沌になるまでを酔う〉という歌をイメージしました。うどんのもつやわらかさにはどこか許されてしまう感じがあります。四首目も雨の歌なのですが、雨が降っていることによって、ひとりの時間がかえっていとおしさを感じるようでもあり、「あした」「雨だれ」と続くことで、どこか救われるような印象があります。

 駆け足気味でしたが、内面と外界の境界にあるはずの何かを感じさせてくれる一冊です。

瀬戸際レモン (新鋭短歌シリーズ27)

瀬戸際レモン (新鋭短歌シリーズ27)

 

 

文さんのブログで短歌が紹介されました

こんにちは、短歌人の太田青磁です。

文さんのブログ「f_blue な日々」にて、私の短歌が紹介されました。

眼の遠くなりし上司に頼まれて細かなメモの文字音読す(太田青磁)

fumikohblue.at.webry.info

 

文さん、ありがとうございました。